2.13
夜明け前の森は、好きだ。
まだ人の営みが目覚めていない時間。
魔族の気配も薄く、
獣たちの息遣いだけが静かに地を満たしている。
レイナは木の上で、膝を抱えて座っていた。
下では、エルナとミラが交代で仮眠を取っている。
規則正しい呼吸。
だが深くはない。
(……眠りが浅い)
人間は、いつもそうだ。
短い時間しか生きられない代わりに、
眠りも、覚悟も、選択も――すべてが急ぎ足になる。
その様子を見下ろしながら、
レイナの思考は、静かに過去へと滑っていった。
◇
――人間とエルフが、まだ「友好関係」と呼ばれていた頃。
森の外れに、交易所があった。
石と木で作られた、小さな共同拠点。
人間は鉄を持ち込み、
エルフは薬草と弓を渡す。
互いに礼を守り、距離を測り、
それなりに――うまくやっていた。
問題が起きたのは、三十年後。
人間の街が、急速に広がり始めた。
「木を、少し分けてほしい」
最初は、控えめな願いだった。
「ここは、もう使われていない土地だ」
やがて、言い方が変わり。
「森は再生するんだろう?」
最後には、当然のように言われた。
レイナは、その言葉を今も覚えている。
(……確かに、森は再生する)
百年あれば戻る。
二百年あれば、傷跡すら消える。
けれど――
(その百年を、生きない者たちが言うことじゃない)
エルフにとっての百年は、時間ではない。
記憶だ。
積み重なった暮らしであり、
名前を知る命の重みだ。
人間は、自分たちが死んだ後の未来を、
あまりにも簡単に語った。
◇
ある夜、森が燃えた。
人間の開拓団が、魔獣除けのために放った火。
風向きが変わることを、
彼らは想定しなかった。
炎は広がり、
森は焼け、
精霊の流れは乱れ、
獣たちは住処を失った。
抗議するエルフたちに返ってきたのは――
「悪気はなかった」
「想定外だった」
「補償はする」
その言葉のどれ一つ、
森を元には戻さなかった。
焼け落ちた木々も。
途切れた精霊の流れも。
帰らなかった命も。
何ひとつ。
その日から、エルフは
“人間の時間感覚”を信用しなくなった。
◇
魔族との関係も、似ている。
かつて魔族は、森を荒らさなかった。
瘴気の流れを読み、
自然と共存する術を持っていた。
だが人間は彼らを「脅威」と呼び、
理解する前に刃を向けた。
理由は、単純。
「分からないものは、怖い」
ただ、それだけ。
戦争はあっという間に始まり、
終わりの定義を持たないまま続いた。
エルフは、その狭間に立たされた。
人間からは――
「味方でいろ」と求められ。
魔族からは――
「敵ではないだろう」と見られ。
どちらにも、完全には属せない。
(……だから私は)
勇者として、前に出た。
誰かが“正しい”と決めた戦いを、
自分の目で確かめるために。
◇
小枝が折れる音。
意識が現在へ戻る。
エルナが、目を覚ましていた。
静かな視線が、こちらを見上げている。
レイナは木から音もなく降りた。
「眠れなかった?」
エルナは小さく首を振る。
「……考えてた」
短い声。
「正義とは何か。
立場が違えば、何が正しいのか」
焚き火の残り火を見つめる。
「人間。魔族。エルフ」
「……分からない」
レイナは、少し目を丸くした。
「あなた、人間にしては珍しいわね」
「?」
「自分の種族を、絶対だと思ってない」
エルナはしばらく黙り、やがて言った。
「……剣を振る理由が、消える時がある」
その声は静かで、重かった。
レイナは答えず、弓を撫でる。
木目をなぞる指先は、ゆっくりとしている。
「私たちはね」
静かな声。
「時間を、覚えてしまう種族なの」
エルナが顔を上げる。
「覚える?」
「誰が、どこで、何を失ったか」
レイナは森を見渡す。
「それを、忘れられない」
人間は、忘れる。
魔族は、耐える。
エルフは――抱え続ける。
「だからね」
小さく息をつく。
「簡単に“正義”を名乗れなくなるの」
エルナは何も言わない。
ただ、まっすぐ見つめてくる。
迷いと。
それでも進もうとする意志。
(……やっぱり、似てる)
アレンと。
レイナは、ふっと微笑んだ。
「明日、少し付き合って」
「?」
「森の奥に、境界石があるの」
「境界石?」
「昔、人とエルフが
“ここまで”って決めた場所」
約束は守られなかった。
境界は踏み越えられた。
時間が、すべてを曖昧にした。
それでも。
「知っておいた方がいい」
レイナは静かに言う。
「この世界が、どうやって歪んだのか」
焚き火が、ぱちりと爆ぜる。
長命の森。
短命の火。
その間で揺れる世界は、
まだ答えを選べずにいる。
――けれど。
選ぼうとする者たちが、ここにいる。
それだけが。
今夜の、救いだった。




