2.11
夜明け前。
森の空気は、張りつめるほど冷たく澄んでいた。
太陽はまだ姿を見せず、空は深い群青に沈んでいる。
鳥の声は遠い。
世界は、息を潜めているようだった。
エルナは焚き火の跡に土をかぶせ、すぐ後ろで横たわるミラの呼吸を確かめる。
規則正しい。
浅いが、安定している。
胸の奥に滞っていた息が、わずかにほどけた。
「……大丈夫」
誰に向けた言葉なのか、自分でも分からなかった。
ミラが倒れてから丸一日。
能力の反動――聞かされていた通り、目を覚ます気配はない。
エルナは立ち上がり、ゆっくりと周囲へ視線を巡らせた。
五感が、異様なほど冴えている。
風向き。
土の湿り気。
遠くを駆ける小動物の足音。
すべてが輪郭を持ち、肌へ直接触れてくる。
(……やっぱり、消えない)
ヴァルから奪った力ではない。
もっと前。
牢獄へ堕ちる以前。
“仕方なく”奪い続けた命の残滓。
それらは澱のように沈み、今も身体の奥に絡みついている。
エルナは剣を抜いた。
一閃。
空気を裂く音が、遅れて耳に届く。
速い。
重い。
そして、正確だった。
あの魔族には及ばない。
だが――
並の相手なら、考える間もなく命を断てる。
「……この先、私は」
呟きは白い息とともに溶けた。
魔王を討つには力が要る。
それは分かっている。
けれど。
力を得るたびに、
何かが削れていく感覚があった。
◇
正午前。
森を抜けた先に、小さな村が現れた。
低い柵。
簡素な家々。
畑に立つ人影は、まばらだ。
作業の手が止まり、いくつもの視線がエルナへ向けられる。
警戒。
だが、敵意ではない。
「……旅の人かい」
年配の男が、おそるおそる声をかけてくる。
「ええ。少し、休ませてほしくて」
嘘は言っていない。
男の視線が、エルナの背後へ移る。
背負われたまま動かないミラ。
「具合が悪いのか?」
「……少し」
男は深くは聞かなかった。
代わりに、困ったように頭を掻く。
「人手も食料も余裕があるわけじゃないが……困ったときはお互い様だ。
休んでいきなさい。少し手を貸してくれれば助かる」
村人たちの表情には、隠しきれない疲労の色が浮かんでいる。
活気がない。
働き手が足りないことは、すぐに分かった。
◇
夜。
空気が変わった。
虫の音が、不自然に途切れる。
統率のない足音。
荒い息遣い。
隠れる気配のない、複数の影。
魔族ではない。
もっと生々しい――
人間の焦りと飢え。
(……来る)
怒声が闇を裂いた。
「抵抗するな!」
「食料を出せ!」
村の門へ駆ける。
震えながら槍を構える警備兵に、短く告げた。
「下がって」
剣を抜く。
身体が、自然に前へ出た。
一歩。
次の瞬間、世界が遅くなる。
踏み込みと同時に、最前列の男の武器だけを斬り飛ばす。
金属片が宙を舞った。
声が上がるより早く、柄で鳩尾を打ち抜く。
呼吸が潰れ、男が崩れ落ちる。
背後から振り下ろされる棍棒。
振り向きざま、刃の腹で受け流し、足払い。
地面へ叩きつける。
速い。
正確。
容赦がない。
だが――
刃は一度も、肉を裂かない。
「ば、化け物……!」
誰かが後ずさる。
包囲は、すでに崩れていた。
エルナは一歩、前へ出る。
「……まだやる?」
低く、静かな声。
感情のない響きが、恐怖だけを増幅させる。
誰も動けない。
やがて、剣先がわずかに下がった。
「奪わなければ生きられないなら」
視線が集まる。
「働きなさい」
困惑が広がる。
「この村に余裕はない。
それでも――人手が足りない」
誰も言葉を返せない。
「略奪は終わりにして」
剣を収める。
「ここで働くなら、受け入れてもらえるよう私が話す」
沈黙。
信じられないものを見る目。
「ふざけるな……!」
一人が叫ぶ。
「そんな都合のいい話――」
エルナの視線が向く。
それだけで、声が止まった。
「次に奪うことを考えるなら」
静かに告げる。
「そのときは……容赦しない」
◇
翌朝。
村の広場には重い空気が漂っていた。
縛られた野盗たち。
不安げな村人たち。
エルナは村長の前に立ち、静かに頭を下げる。
「……勝手なことを言っているのは分かっています」
それでも、顔を上げた。
「彼らを殺しても何も残らない」
「働き手が増えれば、村は助かるはずです」
村長は長く黙り込み、野盗たちを見た。
痩せた体。
怯えきった目。
やがて、深く息を吐く。
「……確かに、人は足りておらん」
周囲がざわめく。
「真面目に働くなら受け入れよう」
「監視はつける。楽な暮らしもない。
自分の分は自分で働け。
問題を起こせばすぐ追い出す」
厳しい声。
だがそこには、確かな現実と責任があった。
「それでいいな」
野盗の一人が崩れ落ちる。
「……ああ」
かすれた声だった。
◇
村を出て森へ戻る途中。
背中で、ミラがかすかに目を開けた。
「……頭、まだ痛い」
「無理しないで」
「……何か、あった?」
エルナは少し考え、正直に答えた。
「村が襲われました」
「でも……誰も死なずに済みました」
「それで、十分だと思えました」
エルナは少し嬉しそうに。
「迷惑はかけたので少しだけ食料も分け与えておきました」
村の真ん中にはエルナが捕まえた鹿や鳥といった動物が小さい山を作っていた。
ミラは不思議そうにしながら静かに息を吐く。
「そう」
それだけを受け止める声。
木々の隙間から、朝日が差し込む。
体の奥に沈む、奪った力の気配。
消えない。
消せない。
それでも。
「……殺す必要がないなら、殺さない」
少しだけ間を置く。
「でも、守るための力は使います」
背中越しに、ミラが微笑んだ気配がした。
「それでいいのよ」
◇
歩きながら、エルナは自分の手を見る。
力は、ここにある。
過去も、消えない。
だからこそ。
これ以上、自分から望んでは奪わない。
けれど――
守るためなら、迷わない。
それが、今のエルナの選択だった。




