2.10
激しい戦闘が嘘だったかのように静けさ。
折れた木々。
抉れた地面。
戦いの痕跡だけが、生々しく残っている。
エルナは、ミラを背負ったまま立ち尽くしていた。
軽い。
信じられないほど、軽い。
さっきまで、あれほど世界を歪めていた力の持ち主が、
今は眠るように意識を失っている。
「……一週間、動けないって」
ミラの言葉が、何度も頭の中で反響する。
(私が、迷ったから)
剣を握る指に、力がこもる。
足元では、
ヴァル=ネイスが倒れていた。
胸部は深く抉られ、
呼吸は――ない。
エルナは、ゆっくりと近づいた。
殺せば、力を奪える。
それは、分かっている。
だが、
もう勝っている。
この状況で斬るのは、
戦いじゃない。
エルナは、剣を下ろした。
「……」
ヴァルの顔は、穏やかだった。
まるで、
長い役目を終えたかのように。
そのとき。
「……まだ、甘いな」
かすれた声。
エルナは、反射的に後ろへ跳んだ。
ヴァルの瞳が、ゆっくりと開く。
「驚いた顔だ」
口元に血を滲ませながら、笑う。
「これでは回復もままならないな……だがまだ生きてるぞ」
「もう、戦えないでしょう」
エルナは、一応剣を構え直す。
「違いない」
ヴァルは、視線を空へ向けた。
「だが、話すくらいはできる」
沈黙。
「私は相手の考えていることが分かってしまう。
それだけにこの世界はつまらない。」
風が、葉を揺らす。
「君は、リュナを殺すつもりだった」
唐突な言葉。
エルナの胸が、わずかに強張る。
「……だった?」
「そうだ」
ヴァルは、ゆっくりと頷く。
「今は、違うだろう。」
エルナは答えない。
代わりに、問いを返した。
「あなたが、リュナを人間に渡した理由」
ヴァルは、短く笑った。
「理由か」
一拍置いて、続ける。
「簡単だ」
「先代魔王――あの子の父は、人間を攻めなかった」
声は、淡々としている。
「魔族は強かった。
だが、侵略を選ばなかった」
それが、不満だった。
ヴァルの言葉には、
隠す気配がない。
「我々は、力を持っていた。
なのに、使わない」
「理解できなかった」
「……だから?」
「理由が、欲しかった」
視線が、エルナに戻る。
「侵略の、正当な理由が」
胸の奥が、冷たくなる。
「だから、子供を売った」
「……っ」
「魔王の血を引く、あの少女を」
ヴァルは、静かに告げる。
「人間に渡せば、
いずれ、世界は燃える」
「魔族も、人間も、引き返せなくなる」
「その火種として、最適だった」
エルナの指が、震える。
「……リュナは」
「あれだけ人間に利用されたんだ。
いい感じに恨んでくれると思ったんだがな。」
エルナは、目を伏せる。
剣を、強く握りしめる。
ヴァルは、わずかに目を細めた。
「今の彼女もつまらない。形だけの侵略だ。
人を最低限殺さないなど考えられない。」
「魔族こそが選ばれた存在だ。
それをただ示せばいいというものを。」
エルナは、顔を上げた。
「……あなたは、間違っている」
ヴァルは、笑った。
「そうだろうな」
「だが、後悔はしていない」
血が、咳と共に溢れる。
「世界は……動いた」
「それだけで、十分だ」
エルナは、剣を振り上げた。
だが――
振り下ろさない。
「……あなたを、殺さない」
「奪わない」
ヴァルの瞳が、わずかに揺れる。
「それが……君の選択か」
「ええ」
エルナは、はっきりと答えた。
「私は、怪物にはならない」
「必要なら、戦う」
「でも――」
一拍。
「理由のために、誰かを殺すことはしない」
ヴァルは、ゆっくりと目を閉じた。
「……甘い」
だが、その声には、
どこか安堵が混じっていた。
次の瞬間。
呼吸が、完全に止まる。
エルナは、しばらくその場に立ち尽くしていた。
奪えば、もっと強くなれた。
でも、そうしなかった。
その選択が、
正しいかどうかは分からない。
ただ一つ。
「……ミラ」
背中の重みを、確かめる。
彼女は、生きている。
それだけで、今は十分だった。
森を出る前、
エルナは一度だけ、振り返った。
ヴァル=ネイス。
世界を歪めた魔族。
彼が残したものは、
勝利でも、力でもない。
――問いだった。
そして、
その問いは、これから先、
何度もエルナを試すことになる。
静かな森の中で、




