2.9
ミラの背中は、迷いなく前にあった。
細い肩。
決して大きくはない体。
それでも――
今の彼女は、エルナの視界を完全に塞いでいる。
「……下がって」
低い声。
エルナは動けなかった。
剣を握ったまま、ただ見ている。
ヴァル=ネイスは、その様子を眺め、わずかに目を細めた。
「なるほど」
感心したような声音。
「君は決心したか。彼女のために」
「違うわ」
ミラは短く返す。
「私が、勝手にやるだけ」
ヴァルは小さく笑った。
「悪くない」
次の瞬間。
ヴァルが踏み込む。
速い。
今までとは明らかに違う――
殺すための一歩。
ミラは腰の短剣を逆手に構えた。
刃は小さい。
だが、迷いはない。
金属音。
刃と刃がぶつかり、火花が散る。
重い一撃。
ヴァルの力に、ミラの腕が弾かれる。
だが、下がらない。
体を沈め、
すれ違いざまに短剣を走らせる。
布が裂けた。
ヴァルの外套が切り裂かれる。
「……ほう」
愉快そうな声。
ミラは構え直さない。
短剣は握ったまま、腕を遊ばせる。
踏み込みを殺し、
逆に懐へ潜る。
肩。
肘。
膝。
短剣を持たない手足が、
容赦なく急所を叩く。
腹部へ膝。
喉元へ掌底。
だが、魔族の身体は重い。
反撃。
肘が振り下ろされ、ミラの視界が揺れる。
その勢いを利用し、
彼女は回転するように距離を詰めた。
短剣が走る。
斬るのではない。
突く。
鎖骨の下。
心臓を避け、肺を狙う軌道。
だが――
ヴァルは身体を捻り、かわした。
「いい動きだ」
楽しげな声。
次の瞬間。
手首を掴まれた。
ミラは即座に力を抜く。
体を預けるように前へ倒れ込む。
投げ。
小さな体が、大きな魔族を地面へ叩きつけた。
衝撃。
土煙が舞う。
だが、追撃はしない。
ミラは一歩引いた。
(……もう、いい)
胸に手を当てる。
隠す意味はない。
ここまで来た以上。
次の瞬間。
魔力が爆発した。
音はない。
だが、空気が裂ける。
視界が歪み、
世界の輪郭が揺らぐ。
限界突破――リミットブレイク。
身体能力。
反射。
知覚。
すべてが、壊れる寸前まで引き上げられる。
ヴァルが立ち上がる。
その刹那。
ミラは、消えた。
違う。
踏み込んだのは、たった一歩。
だが――
時間が引き延ばされたかのように、
その一歩が全てを支配する。
ヴァルの視線が、刃を追った。
その瞬間。
ミラの体が、わずかに沈む。
掌底。
鳩尾。
相手が吹き飛んだところを追いかけて蹴り上げ。
身動きも取れない状態で短剣が――
心臓の位置を、正確に貫いた。
一瞬。
音も、悲鳴もない。
ヴァル=ネイスの動きが止まる。
沈黙。
そして。
ミラの足が崩れた。
「ミラ!」
エルナが駆け寄り、抱き止める。
ミラは力なく笑った。
「……正面から戦うものじゃないわね」
息が浅い。
「派手にやると……こうなるのよ」
目を閉じかけながら続ける。
「これ使うと……一週間は、動けないの」
エルナは唇を噛む。
「……ごめんなさい」
ミラは首を振る。
「謝らないで」
薄く笑う。
「あなたが迷えるなら……まだ、大丈夫」
ヴァルの身体は動かない。
だが。
エルナは剣を振るわなかった。
殺さない。
奪わない。
その選択の重さを、
胸の奥に刻みながら。
森の中で。
戦いは――
静かに終わっていた。




