2.6
村は、思ったよりも普通だった。
柵があり、畑があり、
夕方の空気に、煮炊きの匂いが混じっている。
戦争の気配は、ここにはない。
「……入るわよ」
ミラが外套のフードを深くかぶりながら言った。
エルナは、少し遅れて頷く。
足取りは安定していた。
戦闘の後から、身体は嘘みたいに言うことを聞いている。
魔族を倒した後に流れ込んできた“力”。
筋肉の張り。
神経の冴え。
視界の解像度。
高揚は、もうない。
だが、消えてもいない。
――それが、気持ち悪い。
村の入り口で、老人に止められた。
「旅の方かね?」
「ええ。少し休ませてほしい」
ミラが慣れた調子で答える。
老人は周囲を気にしながら、声を落とした。
「魔族が出るって話、聞いたか?」
「この辺り、斥候みたいなのが出てな……」
エルナの指先が、わずかに動く。
――さっき倒した二体。
「もういません」
思わず、口に出ていた。
老人が目を見開く。
「……何だって?」
「通り道に、いましたけど。
もう、いないです」
嘘ではない。
だが、真実でもない。
老人は何か言いたそうにしたが、
結局、深くは聞かなかった。
「……助かったよ。
宿は空いてる。使ってくれ」
◇
宿の部屋は、小さかった。
木の床。
簡素な寝台。
窓の外では、子どもたちが走り回っている。
エルナは椅子に腰掛け、剣を壁に立てかけた。
まだ、剣が軽い。
身体に残る“余熱”。
(……消えない)
殺した直後の昂りではない。
もっと、持続的なもの。
まるで――
自分の一部になったみたいに。
「気分は?」
ミラが向かいに座りながら聞いた。
「……普通です」
「それ、信用していい?」
エルナは少し考えてから答えた。
「普通じゃないことを、
ちゃんと分かってます」
ミラは何も言わない。
それが肯定なのか、保留なのかは分からなかった。
◇
夕食時、宿の食堂がざわついた。
「子どもがいない」
「どこ探しても、見つからないんだ」
村人たちが顔を寄せ合っている。
「森に行ったんじゃ……」
「この時間に?
魔族が出るって話もあるのに?」
エルナは黙って聞いていた。
胸の奥で、
何かが静かに反応している。
「……私、探します」
ミラが口を開くより早く、言葉が出た。
ミラがエルナを見る。
「大丈夫」
短く言う。
エルナは、そのまま立ち上がった。
◇
森に入ると、空気が変わった。
湿り気。
冷たい土の匂い。
鳥や虫の声。
牢に入れられる前から、
彼女の五感は人並みを超えていた。
――奪ってしまった、誰かのもの。
(……殺したことは、忘れない)
だが。
その力を、ためらうことはない。
目を閉じても、耳を塞いでも、
身体が勝手に拾ってしまう情報。
それを拒む術を、エルナは持っていなかった。
歩幅を調整する。
音を殺す。
呼吸を浅くする。
――いる。
沢の方向。
不均一な呼吸。
魔族じゃない。
(……子ども)
判断は、考えるより早かった。
倒木の向こうで、少年が座り込んでいた。
足を捻ったらしい。
「立てる?」
少年は首を振る。
魔族の気配はない。
それでも、警戒は解かない。
子どもを支え、来た道を戻る。
森は暗い。
だが、迷うことはなかった。
(……見えすぎる)
地面の凹凸。
踏み荒らされた草。
風の流れ。
全部、分かる。
それが自分の“普通”になっていることが、
どうしようもなく気持ち悪かった。
戻る途中、子どもがぽつりと呟く。
「おねえちゃん、すごい」
エルナは少し躊躇ってから答えた。
「……普通だよ」
まるで、自分に言い聞かせるみたいに。
◇
村に戻ると、拍手と安堵の声が迎えた。
感謝。
礼。
安い酒の匂い。
エルナは少し距離を取り、それを眺めていた。
ミラが横に並ぶ。
「五感が鋭いのね」
エルナは頷いた。
「便利すぎる。
だから、嫌です」
ミラはしばらく黙ってから言う。
「それでも、必要になる」
「……分かってます」
分かっているからこそ、
剣を取った。
窓の外で、子どもたちの笑い声がする。
エルナはそれを聞きながら、目を閉じた。
――奪わなくても、守れるように。
この力は、守るために使う。
その決意を、忘れないように。
余韻は、まだ消えない。
だが、
それに飲み込まれるつもりはなかった。
真実に辿り着く、その日までは。




