2.5
森の空気は、張りつめていた。
風はある。
だが、葉擦れの音が不自然に少ない。
「……いるわね」
ミラが声を落として言った。
エルナは頷き、視線を前に固定する。
木立の隙間。斜面の向こう。
二つの影が、規則正しく移動していた。
魔族。
角は短く、体躯は人間より一回り大きい。
動きに無駄がなく、周囲を警戒しながら進んでいる。
「斥候ね」
ミラが続ける。
「正面衝突は避けるけど、見つけた相手は逃がさない。
数は少なくても、油断すると死ぬタイプ」
エルナは視線を外さずに尋ねた。
「……ミラは、どう戦うんですか」
わずかな間。
「勇者パーティでは後衛だったわ」
そう言いながら、ミラは腰の短剣に手を添える。
「回復、支援。主に後ろ。
でも――こっちも苦手じゃないわ」
刃はまだ抜かない。
指先で柄の感触を確かめる。
「近接も、暗殺も問題ない」
「……そうですか」
「あなたは?」
エルナは少しだけ考えた。
「剣です」
それだけ答える。
自分でも、意外なほど迷いがなかった。
その瞬間。
魔族の一体が、こちらを見た。
目が合う。
次の瞬間、地を蹴る音。
速い。
「来るわよ!」
ミラが前に出る。
短剣が閃き、最初の一撃を受け流す。
だが、もう一体が側面から回り込んだ。
「エルナ、下がって!」
身体が、言うことを聞かなかった。
正確には――
聞こうとして、遅れた。
足が重い。
思った距離に、踏み込めない。
――牢を出たばかりだ。
分かっていたはずなのに。
魔族の腕が振り下ろされる。
避けきれない。
そう思った瞬間。
エルナの手は、すでに剣を抜いていた。
考えるより早く。
刃は、正確に喉元を捉えている。
身体は追いついていない。
だが、剣の軌道だけは――完璧だった。
突き。
鈍い感触。
魔族が、崩れ落ちる。
一瞬の静寂。
エルナ自身が、一番驚いていた。
(……できた)
違う。
(剣は、最初から使えていた)
動けなかったのは、
自分の身体だけだ。
その瞬間。
ドクン、と心臓が大きく脈打った。
流れ込んでくる感覚。
熱。
力。
鈍っていた筋肉が、呼吸を思い出す。
関節が、正しい位置に戻っていく。
(……久しぶり)
牢獄に落とされる前。
剣を振れば、身体が自然に応えていた頃。
その感覚が――戻ってくる。
「エルナ!」
二体目の魔族。
今度は、遅れない。
踏み込みは滑らかで、
重心は低く、安定している。
剣を振るというより、
身体全体で流す。
一閃。
魔族は、声を上げる間もなく倒れた。
静寂。
エルナは、ゆっくり剣を下ろす。
足は震えていない。
呼吸も乱れていない。
(……自由に、動く)
その感覚が戻ったことに、
喜びより先に――嫌悪が来た。
これは、自分の力じゃない。
得意な剣も罪人として差し出されてきた物の技術。
殺して。
奪って。
そうして、ようやく戻る感覚。
地下牢でも呼ばれていた名。
――簒奪者。
「……最悪」
呟きは、感情を切り分けるためのものだった。
剣の腕は、ずっと一流だった。
壊されていたのは、身体と時間。
そして今。
怪物の力で、それが修復された。
ミラが静かに近づいてくる。
「……足、最初は危なかったわね」
「はい」
「でも、剣は――」
言葉を探すように、少しだけ黙る。
ミラは、倒れた魔族を一瞥した。
それから、エルナの剣を見る。
「……妙ね」
エルナが顔を向ける。
「何がですか」
ミラは肩をすくめた。
「普通は逆なのよ」
「?」
「身体が戻ってから、剣が戻る」
火のような橙色の目が、まっすぐエルナを見る。
「でもあなたは――」
少しだけ間を置いた。
「最初から“完成した剣”だった」
エルナは答えない。
ただ、剣を握り直す。
嫌悪はある。
冷静さもある。
両方あるまま、進む。
「行きましょう」
声は落ち着いていた。
「ここに長くいる理由はありません」
ミラは、何も言わずに頷いた。
二人は歩き出す。
倒れた魔族を、振り返らない。
奪った力は、まだ身体に残っている。
逃げ場のない事実として。
――鎖は外れた。
そして今。
怪物としての自分も、目を覚ました。
それでも。
止まるつもりはなかった。
真実に辿り着くまでは。




