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2.3

旅は、静かに始まった。


馬車を降り、徒歩に切り替えて三日。

街道沿いの村をいくつか抜け、やがて森へ入る。


エルナは、歩くという行為そのものに、まだ慣れていなかった。


地下牢では、距離という概念が曖昧だった。

数歩先に壁があり、

数日先にも、同じ壁がある。


世界は、広がらなかった。


「無理しないで」


前を歩くミラが、振り返らずに言う。


「倒れられると困るから」


気遣いとも、命令とも取れる声音。


「……平気です」


短く答える。


本当に平気かは、自分でも分からない。

ただ、立ち止まる理由がなかった。



最初の村で、噂を聞いた。


「最近さ、魔族が妙に統制取れてるらしいんだ」


酒場の隅で、農夫らしき男が声を潜める。


「魔王がいなくなったはずなのに?」


「それが、生きてるって話もある」


エルナの手が、わずかに止まる。


「しかもな……前ほど、無差別じゃない」


ミラは杯を傾けたまま、動かなかった。

聞いていないふりで、すべて拾っている。


「村を焼かずに通り過ぎた魔族もいたってよ」


誰かが笑った。


「そんなわけあるか」


――魔族は敵だ。

――人を襲う存在だ。


当たり前だった前提が、

ほんのわずか、軋む。



次の町では、別の話を聞いた。


「黒い外套の男がいるらしい」


武器屋の主人が、声を落とす。


「魔族に襲われた村を助けたって」


「何者だ?」


「さあな。名乗らないらしい。顔も隠してる」


エルナは、知らず拳を握っていた。


理由は分からない。

ただ、その噂だけが妙に残る。


「人間ですか」


ミラが何気なく尋ねる。


「分からん。でもな、自分が傷つくのも構わず助けたって話だ」


「無償で、ね」


ミラは小さく笑った。


「噂は事実じゃなくて、人の願いを映すものよ」


「……願い?」


「“誰かが助けてくれる”って願い」


エルナは黙ったまま、杯を見つめた。



夜。野営地。


火は小さく、音も抑えられている。


エルナは毛布に包まり、空を見上げた。


星が、多すぎた。


地下では、空を知らなかった。


「……魔王リュナは」


ぽつりと、言葉が落ちる。


「本当に、悪なんでしょうか」


ミラはすぐには答えなかった。


火が、小さく弾ける。


「立場次第ね」


即答を避けた声音。


「人類にとっては敵。でも、魔族にとっては――」


「王、ですか」


ミラは小さく息を吐いた。


「そう」


沈黙。


その中で、エルナは思う。


兄アレンは、

この世界を、どう見ていたのだろう。



同じ夜。

少し離れた森の奥。


焚き火を持たない男が、一人立っていた。


黒い外套。

顔は影に沈み、目だけが周囲を測っている。


遠くに、魔族の気配。

近づき、

止まり、

また離れる。


「……また、同じだ」


低い声。


助けて、名も告げずに去る。

それを繰り返すことが、償いになるとは思っていない。


それでも――


誰にも、近づかない。


その誓いだけが、男を縛っていた。


裏切った少女の顔が、胸をよぎる。


男は目を閉じた。


「……まだ、許されてはいけない」


誰にも聞こえない声。


闇は、すぐそこにある。

だが男は、そこへ踏み込まない。


代わりに背を向ける。


助けを求める人のいるところへ。


黒い外套は揺れ、

その背は、静かに森へ溶けていった。

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