2.3
旅は、静かに始まった。
馬車を降り、徒歩に切り替えて三日。
街道沿いの村をいくつか抜け、やがて森へ入る。
エルナは、歩くという行為そのものに、まだ慣れていなかった。
地下牢では、距離という概念が曖昧だった。
数歩先に壁があり、
数日先にも、同じ壁がある。
世界は、広がらなかった。
「無理しないで」
前を歩くミラが、振り返らずに言う。
「倒れられると困るから」
気遣いとも、命令とも取れる声音。
「……平気です」
短く答える。
本当に平気かは、自分でも分からない。
ただ、立ち止まる理由がなかった。
◇
最初の村で、噂を聞いた。
「最近さ、魔族が妙に統制取れてるらしいんだ」
酒場の隅で、農夫らしき男が声を潜める。
「魔王がいなくなったはずなのに?」
「それが、生きてるって話もある」
エルナの手が、わずかに止まる。
「しかもな……前ほど、無差別じゃない」
ミラは杯を傾けたまま、動かなかった。
聞いていないふりで、すべて拾っている。
「村を焼かずに通り過ぎた魔族もいたってよ」
誰かが笑った。
「そんなわけあるか」
――魔族は敵だ。
――人を襲う存在だ。
当たり前だった前提が、
ほんのわずか、軋む。
◇
次の町では、別の話を聞いた。
「黒い外套の男がいるらしい」
武器屋の主人が、声を落とす。
「魔族に襲われた村を助けたって」
「何者だ?」
「さあな。名乗らないらしい。顔も隠してる」
エルナは、知らず拳を握っていた。
理由は分からない。
ただ、その噂だけが妙に残る。
「人間ですか」
ミラが何気なく尋ねる。
「分からん。でもな、自分が傷つくのも構わず助けたって話だ」
「無償で、ね」
ミラは小さく笑った。
「噂は事実じゃなくて、人の願いを映すものよ」
「……願い?」
「“誰かが助けてくれる”って願い」
エルナは黙ったまま、杯を見つめた。
◇
夜。野営地。
火は小さく、音も抑えられている。
エルナは毛布に包まり、空を見上げた。
星が、多すぎた。
地下では、空を知らなかった。
「……魔王リュナは」
ぽつりと、言葉が落ちる。
「本当に、悪なんでしょうか」
ミラはすぐには答えなかった。
火が、小さく弾ける。
「立場次第ね」
即答を避けた声音。
「人類にとっては敵。でも、魔族にとっては――」
「王、ですか」
ミラは小さく息を吐いた。
「そう」
沈黙。
その中で、エルナは思う。
兄アレンは、
この世界を、どう見ていたのだろう。
◇
同じ夜。
少し離れた森の奥。
焚き火を持たない男が、一人立っていた。
黒い外套。
顔は影に沈み、目だけが周囲を測っている。
遠くに、魔族の気配。
近づき、
止まり、
また離れる。
「……また、同じだ」
低い声。
助けて、名も告げずに去る。
それを繰り返すことが、償いになるとは思っていない。
それでも――
誰にも、近づかない。
その誓いだけが、男を縛っていた。
裏切った少女の顔が、胸をよぎる。
男は目を閉じた。
「……まだ、許されてはいけない」
誰にも聞こえない声。
闇は、すぐそこにある。
だが男は、そこへ踏み込まない。
代わりに背を向ける。
助けを求める人のいるところへ。
黒い外套は揺れ、
その背は、静かに森へ溶けていった。




