2.2
鎖が外れた瞬間、
エルナは――自由になったとは思えなかった。
鉄が床に落ちる音は、やけに軽い。
長いあいだ骨の奥まで染みついていた重みが消えたはずなのに、身体の内側には、まだ何かが絡みついている。
「歩けるな?」
兵士の声は確認というより、ほとんど命令だった。
エルナは黙ってうなずき、立ち上がる。
足はわずかにふらついた。
だが、倒れない。
倒れることすら、許されない気がした。
「……はい」
短い返事。
それだけで十分だったらしい。
兵士は通路の奥を顎で示した。
地下牢を出る通路は長かった。
歩くたび、エルナは自分の足が震えていることに気づく。
恐怖ではない。
疲労でもない。
――外に出るのが、怖い。
世界がまだ、そこにあることが。
◇
通された部屋は、牢よりはましだった。
だが、“客室”と呼ぶにはあまりにも無機質だ。
窓は小さく、外の景色は見えない。
扉の外には、常に見張りが立っている。
ほどなくして、高官が現れた。
机を挟み、書類をめくりながら言う。
「これから、お前は魔王討伐に向かう」
エルナは何も言わない。
「魔王リュナの討伐。
成功すれば、自由と名誉を与える」
自由。
その言葉が、妙に軽く聞こえた。
「失敗したら?」
エルナは静かに訊く。
高官は一瞬だけ目を伏せた。
「……記録から消えるだけだ」
やはり。
「拒否したら?」
「地下牢に戻る。
あるいは――処分だ」
選択肢は、最初からない。
エルナは少しだけ考えた。
そして答えた。
「……分かった」
従うためではない。
生き残るためでもない。
(真実を知る)
アレンは本当に死んだのか。
誰が、何を隠したのか。
リュナは、なぜ魔王になったのか。
それを知らずに終わるくらいなら、
この国に使われる方が、まだましだった。
◇
同じ頃。
城下町の外れで、ミラは身を潜めていた。
協会の紋章は外し、装備も最低限。
かつて“正義”を名乗っていた立場は、今や追われる側だ。
「……皮肉ね」
小さく呟く。
勇者パーティの一員。
魔王討伐を“見届けた”暗殺者。
それなのに。
「全部、私の責任だなんて」
ミラは空を見上げた。
魔王は生きている。
しかも――“勇者だった少女”が。
協会は言った。
「報告が誤っていた」
「虚偽、あるいは錯誤」
「責任は、お前にある」
ミラは、確かに見た。
血にまみれたアレン。
倒れ伏す魔王。
動かないリュナ。
あの光景は、あまりにも現実だった。
それでも――
リュナは生きていた。
「……別人が名乗っている?」
小さく首を振る。
その可能性も考えた。
けれど。
「……そんな気もしないのよね」
ミラは静かに息を吐いた。
答えは出ない。
でも、確かめるしかない。
彼女は歩き出した。
◇
地下牢の扉が閉じる音が、やけに大きく響いた。
――外に出た。
それだけで、足元が少し不安定になる。
エルナは手を握り、開く。
鎖はない。
それが事実だと理解するまで、少し時間がかかった。
「……久しぶりの自由は、どう?」
背後から、柔らかな声。
振り返ると、黒髪の少女が立っていた。
フードを外し、灰色の瞳でこちらを見ている。
穏やかな微笑み。
だが、どこか作り物めいていた。
「誰?」
エルナは距離を取ったまま訊く。
「ミラ。元・協会所属。元勇者パーティよ」
さらりと言う。
エルナの眉がわずかに動いた。
――協会所属の勇者パーティ。
勇者を選び、管理する組織。
魔王討伐を導く者たち。
「……暗殺者?」
「ええ。正確には“だった”だけど」
ミラは肩をすくめる。
「今は追われる側。
あなたと似たようなものね」
「私は何もしてない」
「それでも鎖に繋がれていたでしょう?」
ミラの声は柔らかい。
「あなたが私を知っているように、
私もあなたを知っているの。
当然よ」
エルナは黙る。
事実だった。
「……それで」
エルナが言う。
「何の用?」
「確認よ」
ミラは即答した。
「あなたが“本気”かどうか」
「何の?」
「魔王を殺す気があるかどうか」
空気が少し冷える。
エルナの胸の奥で、何かが動いた。
「……あの魔王」
少し間を置く。
「本当に、殺すべき?」
ミラの瞳が、わずかに揺れた。
「あなた、見たんでしょう」
エルナは続ける。
「アレンとリュナと、魔王の死に様」
ミラはゆっくり息を吐いた。
「……見たわ」
「確信してる?」
「……あの出血量なら、生きているはずがない」
「“見たもの”が本当ならね」
ミラの表情が少し硬くなる。
「何が言いたいの?」
「分からない」
エルナは言う。
「兄は死んだって言われた。
でもリュナは生きてる。魔王になって」
「……」
「だったら」
エルナは静かに続けた。
「何かが違う」
ミラは黙る。
自分の報告。
協会の判断。
そして今の現実。
辻褄が合わない。
「……疑い深いのね」
ミラが言う。
エルナは少し笑った。
冷えた笑み。
「あの兄の妹だから」
その一言で、ミラは理解した。
――感情の種類が違う。
この少女は、正義でも使命でも動いていない。
もっと個人的で、逃げ場のない理由。
「私は、真実を知りたい」
エルナは言う。
「兄が殺されたなら、その理由。
生きてるなら、その居場所」
そして。
「そのためなら」
静かな声で言い切る。
「魔王も、国も、協会も壊す」
沈黙。
ミラは目を伏せた。
(……似てる)
思い出す。
勇者パーティの中で、
一番危うくて、一番優しかった少女。
そしてそれを支え続けていた少年。
二人の勇者に。
「……いいわ」
ミラは言った。
「私は魔王を殺したい。
それが今の私の生き方だから」
「目的は違う」
「ええ。でも行き先は同じ」
利害の一致。
エルナは少し考えて、うなずいた。
「……裏切ったら?」
「殺せばいいわ」
ミラは微笑む。
「あなたも私も、できるでしょう?」
エルナは答えない。
ただ前を見る。
曇った空。
遠くで鳴る戦の気配。
鎖は外れた。
だが、自由ではない。
それでも。
エルナは一歩踏み出す。
「行こう」
ミラが訊く。
「どこへ?」
エルナは空を見上げた。
そして言う。
「兄が死んだ場所」
その言葉に、ミラの心臓がわずかに跳ねた。
――そこは。
彼女が、あの報告を書いた場所だった。




