2.1
地下牢は、時間という概念を殺す場所だった。
朝も夜もない。
季節の気配も届かない。
湿った石壁から滲む冷気と、
錆びた鉄の匂いだけが、どこまでも続いている。
少女は、そこに「置かれて」いた。
エルナは、両腕を頭上で縛られ、鎖に吊るされたまま俯いている。
足先は床につく。
だが、体重を預けることは許されない。
少しでも力を抜けば、
手首に食い込む鉄が、骨を責める。
――逃げ場はない。
――楽になる方法もない。
叫んでも、誰も来ない。
泣いても、意味はない。
ここでは、それを学ぶだけの日々が続く。
この国は、彼女を「簒奪者」と呼んだ。
殺した相手の力を奪い、強くなる存在。
戦争を終わらせるための切り札。
だが同時に、
制御不能の怪物でもある。
だから地下牢だ。
使う時まで、壊れないように。
それ以外の価値は、最初から考えられていない。
「……兄さん」
かすれた声が、石壁に吸われて消える。
アレン。
その名を口にするだけで、胸の奥が痛んだ。
勇者パーティの一員として魔王討伐に向かい、
魔王と相打ちになって死んだ――そう教えられている。
国はそれを英雄譚として語った。
街には像が建ち、子どもたちはその歌を覚えた。
だが、エルナは信じられなかった。
理由はない。
証拠もない。
ただ、胸の奥の何かが、否定し続けている。
――兄は、そんな死に方をしない。
それだけだった。
やがて、鉄靴の音が通廊に響いた。
エルナは顔を上げない。
期待する心は、とっくに殺している。
「……魔王リュナが、生きている」
低い声が告げた。
その一言で、心臓が跳ねた。
「一年前、勇者によって討たれたはずの魔王は生存していた。
本日、人類国家に向けて宣戦布告が出された」
エルナは、ゆっくりと顔を上げる。
「……じゃあ」
声が震えた。
「アレンは?」
男は一瞬だけ沈黙した。
言葉を選ぶような、わずかな間。
そして答える。
「死んだ。
勇敢に戦い、使命を果たした」
それは、いつもと同じ答えだった。
整えられた、都合のいい真実。
エルナは笑わなかった。
泣きもしなかった。
ただ、静かに理解した。
――世界は、嘘の上に立っている。
一方、地上の世界は、すでにかつての熱狂を失っていた。
魔王討伐から三カ月。
確かに、魔族の侵攻は一時的に減った。
人々は安堵し、酒を飲み、英雄を讃えた。
「もう戦争は終わった」と信じた。
だが、それは幻想だった。
半年が過ぎる頃から、国境が燃え始める。
小さな村が消え、
交易路が絶たれ、
死体が増えていった。
そして一年後。
空に、魔族の紋章が掲げられた。
――魔王リュナによる、正式な宣戦布告。
人々は凍りついた。
勇者が倒したはずの魔王。
死んだはずの存在。
それが再び、名を名乗った。
しかも、その名は――
かつて「人類を救った勇者」のものだった。
希望は、完全に裏切られた。
街には不安が広がり、
国は慌てて新たな“対抗策”を探し始める。
誰も、自分たちが何をしてきたのかを顧みない。
英雄を祭り上げ、
利用し、
切り捨て、
そして今度は恐れる。
世界は、変わっていなかった。
ただ――
より露骨に、醜くなっただけだ。
地下牢で、エルナは静かに目を閉じる。
魔王が生きている。
兄は死んだことになっている。
その間に横たわる、巨大な歪み。
(……真実を、知りたい)
もし兄が殺されたのなら。
もし、何かを隠されたのなら。
そのすべてを――壊す。
救われなくてもいい。
許されなくてもいい。
この世界が嘘のまま進むのなら、
それを引き裂く役を、自分が引き受ける。
鎖が、静かに鳴った。
地下牢の奥で。
世界はまだ――
何も始まっていない。




