第8話 妖精の手
静寂が支配する豪奢な私室。無機質なコンクリートの地下搬入エリアから帰還したプレシアは、自室のベッドの端に腰掛けたまま、ピクリとも動かなかった。
天飾りのついたベッドの周囲には、彼女が手塩にかけて仕上げた最高級のビスクドールたちが、ガラス細工の瞳を光らせて鎮座している。かつては世界で最も愛おしく、己の絶対的な支配権を象徴する最高のコレクションであったはずの「お友達」。
だが、今のプレシアの瞳には、それらはただの無価値な瓦礫――ガラクタにしか映っていなかった。
(……足りない。なにもかも、浅ましくて、安っぽいわ……)
プレシアは、自らの右手首を愛おしむようにそっと撫でた。そこには、あの黒いコートの少女――黒瀬澄に掴まれた触感が、冬空のように冷たくも温かい温もりが、今なお刻印のように焼き付いている。
あのお方が見せた、本当の“戦い”という光景。極限まで研ぎ澄まされた意思と、数え切れぬ死線を潜り抜けてきた者だけが纏う本当の気魄。
そして何より――この天階階位8位たるプレシアを、ただの無力な子供として扱い、その小さな背中で完璧に庇い切ってみせたという衝撃。周囲を絶えず確認しながら戦っていた彼女は、少しは不自然に思ったはずだった。プレシアは怯える演技を忘れて戦いに見入っていたのだから。
(……ふふ。あはは……っ)
精緻な人形のような顔を、禍々しく歪めながら微笑むプレシアの黒いバッグの底から、つぎはぎだらけのクマのぬいぐるみ――パートナー妖精のクロトが、ボタンの瞳を極限まで引きつらせながら、恐る恐る顔を出していた。
(あー……やばいやばいやばい。完全にタガが外れちゃってるよぉ……!)
もしクロトが冷や汗を流せる身体をもっていたら、滝のような汗をかいていただろう。クロトは分析していた。直前に目撃したあの『黒星』と呼ばれた少女の戦闘力を。
素早い判断、極限まで削ぎ落とされた無駄のない体術、そして縄鏢を支点とした攻性結界。戦闘中に頻繁にクロトが感じ取った様々な魔力の波は、恐らく感知系の力で、常に戦場全体に気を配って周囲を把握しようとしていた歴戦の立ち回り。
純粋な火力の絶対値や影響規模だけで測るならば、あの時の黒星の力は、防衛局の上位ランカー……ましてや天階階位8位であるマスタードールの絶大な魔力には到底及ばない。対人戦という意味では手古摺る可能性があったものの、攻撃範囲や火力の面では明らかに優越しているし、彼女が保有する三体の『特別なお友達』はどれもがこの世界で遭遇した怪物では最高位の素材を使った『お友達』で、実際のところ不真面目さからランク8に甘んじているだけで、プレシアの総合力は最上位クラスだ。
――だが、クロトの研ぎ澄まされた戦術眼は、決してそれを見誤らない。
あの黒いコートの少女は、明らかに力を隠している。放たれた一挙一動には、幾重にも重なる実戦の経験値が滲んでいるが、クロトの見立てではあの戦い方は黒星本来の戦い方ではない可能性が高い。つまり、現時点では計り知れないというリスクはとても無視できない。
そして何より、プレシアがあの少女に無軌道に襲いかかったり、気まぐれに他者に害意を向けるような場面を見られれば、一瞬で拒絶され、最悪の場合は破滅的な破局を迎えるのは容易に予想できる。
プレシアの人格は狂気に満ち、壊滅的ではある。だが、クロトが幼少期から叩き込んだ英才教育により、彼女は恐ろしいほどに聡明でもあった。物事の因果関係、他者の心理構造を客観的に予測する頭脳は極めて高い――そこまで考えた所で、プレシアから臨界反応。
プレシアの頬が、朱に染まる。氷灰色の瞳が濡れたように怪しく歪み、変身すらしてしないはずのプレシアの身体から、ドロリとした濃密な魔力が溢れ出そうとした、その時だった。
「――はいっ! ストップ、ストップだよプレシアちゃん!!」
バッグの底から飛び出したパートナー妖精のクロトが、必死の様相でプレシアの視界へ割り込んできた。ボタンの瞳の奥で冷汗を流しながら、クロトは命がけの立ち振る舞いを始める。
歴戦の妖精であるクロトには痛烈に理解できていた。目の前の少女の内部で爆発しているのは、自尊心の崩壊と歪んだ恋情が混ざり合った、破滅的なまでの執着心だ。
プレシアは能力の成長速度と才能の開花を最優先して育成してきたため、精神的な安全弁や倫理観の構築は後回しにしてあった。その結果、彼女は「強さ」の表層だけでなく、黒星が持つ「強靭な意思の価値」を理解できるまでに育ったが――それが今、最悪の形で結実してしまっている。
下手に刺激すれば、この爆弾娘は黒星を追い求めて無軌道に暴走し、防衛局もろとも自滅しかねない。
「プレシアちゃん! 落ち着いてボクの話を聞いて! ボクね、あの『黒星様』のこと、色々と分析してみたんだよぉ!」
「……黒星様?」
クロトが投じたその名に、プレシアの肩がびくりと反応した。魔力の漏出がピタリと止まり、狂気を含んだ瞳がクロトを射抜く。
「そう! あの黒星様だよ! プレシアちゃんも見たでしょ? あの人は怪物を倒すだけじゃなくて、一般人である『プレシアちゃん』を命がけで庇ってくれた……つまり、あの人は極めてモラルが高く、強き意思と気品を持った、孤高の英雄なんだよ!」
クロトは額の冷汗を拭う余裕すら見せず、滑らかな弁舌で言葉を紡ぐ。
「そんな黒星様がさぁ……今のプレシアちゃんを見たら、どう思うかなぁ?」
「……え?」
「今のプレシアちゃんはさ、魔法少女たちをおもちゃにして遊んでたり、悪名ばかり目立ってるでしょ? そんな『身勝手で評判の悪い子』が、いきなり『お姉さま〜!』って押し掛けたら……絶対に嫌われちゃうし、お説教されて冷たく追い払われちゃうよぉ! もしそうならなかったとしてもあの人にとって君は『子供』のままで終わっちゃうよ!?」
「――っ!?」
プレシアの顔から一瞬で血の気が引いた。黒星に嫌われる。あの澄んだ冬空のような瞳に、軽蔑の色彩を浮かべられる。それは、プレシアにとって死以上の絶望であり、断じて許容できない未来だった。
(――まぁ、実際のところは違うんだけどねぇ……)
捲し立てながら、クロトは脳内で冷ややかに現状の収支を計算していた。
プレシア本人は他人に一切興味がないため気づいてもいないし、自分でも「気まぐれに好き勝手暴れているだけ」だと思っている。
だが、事実として『傀儡の女王』という魔法少女は、世間や現場の魔法少女たちから決して嫌われてなどいない。それどころか、防衛局の現場では出撃率こそ気まぐれに左右されるものの、出撃した際の迅速さや被害の少なさは特筆するべきものなのだ。
なにせ、プレシアが気まぐれで戦場に現れ、他の魔法少女を自身の糸で「繋ぎ止めて」遊ぶ行為は――受ける側から見れば、死の縁から引き戻してもらう行為に他ならない
彼女の概念の糸による肉体縫合は、欠損や重傷すらその場で繋ぎ合わせる。プレシアの「お人形を直してあげた」程度の認識とは裏腹に、その糸によって命を救われた魔法少女は片手では収まらない。戦闘中に治療魔法を行使できる魔法少女の希少性の上に“お友達”による駒の多さで、治療中に邪魔されないというのも生還率を上げている理由でもある。
さらに、彼女の持つ特異な糸の治療術は、一般人に対しても『治験者』という限定的なカテゴリーで開放されていた。魔法による人身治療は|不可解な変質や後遺症のリスク《未知の危険性》が伴うという名目を妖精たちが表向きに立てることで、治験希望者が殺到し混乱するのを防いではいたが、事実として難病や致命傷から救われた人間たちが確かに存在している。
おまけに、防衛局が手を焼く「違法魔法少女の身柄拘束や処分」といった汚れ仕事すらも、プレシアはお遊びの延長で積極的にやることもある。
つまり、世間や防衛局から見れば多少ワガママで気まぐれではあるものの、ランカーとしての役割を果たしていると見做されている。
――しかし、当のプレシアはそんな他人の評価になどハナから興味がなく、クロトもあえてそれを彼女に教える真似はしてこなかった。それが奇貨となっている。
「い、嫌……! そんなの絶対に嫌……!!」
「でしょ!? だからね、ボクからの提案!」
クロトはビシッと小さな手先をプレシアへ向けた。
「黒星様が『是が非でも手元に置きたい』『この子なら隣に立たせてもいい』って思うような、完璧で、美しくて、誰からも尊敬される『世界一のお人形』になっちゃえばいいんだよ!」
「……黒星様が、私を……手元に……?」
プレシアの瞳に、パァッと狂信的な輝きが戻る。クロトは内心で「よし、乗った!」と叫びながら、さらに畳みかけた。
「そう! そのために、まずは今の最悪な評判を塗り替えるの! 積極的に怪物を討伐して、傷ついた魔法少女たちを助けてあげて、防衛局にも『マスタードールは絶対に必要な存在だ』って認めさせる! それに、あの黒星様みたいな洗練された体捌きも勉強して、プレシアちゃん自身を極限まで磨き上げるんだよ!」
「……私の研鑽……そして、黒星様に認められるだけの、完璧な実績……」
「そう! それにさ、今は配信の時代でしょ? プレシアちゃんが華々しく活躍して配信に乗れば、もしかしたらあの黒星様も、影からプレシアちゃんの勇姿を見てくれるかもしれないよぉ!?」
プレシアの胸の中で、カチリと新たなギアが噛み合った。
「……やるわ」
プレシアは立ち上がり、かつて見せたことのない澄み切った――だがどこか底なしの狂気を孕んだ笑顔を浮かべた。
「お友達なんて、ただ愛でるだけのガラクタはもう要らない。壊して、可愛くなくとも役に立つ機動用に造り直す。……そして私は、黒星様のためだけの、完璧な一番のお人形になるの……!」
こうして、天階階位8位『傀儡の女王』の運用方針は劇的な変貌を遂げることとなった。
――その裏で。
妖精クロトは、久々に暗躍を本格化させていた。




