第7話 狂花の聖誕
「……っ」
プレシアの膝が、ガクガクと小さく震えた。
立っていられない。磁器のように白い脚から一瞬で力が抜け、彼女はそのままひんやりとしたコンクリートの床へ、どさりと力なく膝をついた。
胸の奥が、焼けるように熱い。ドクン、ドクンと、破裂しそうなほどに早鐘を打ち鳴らす自らの脈拍が、耳の奥で激しく反響していた。口元を押さえる指先が、氷灰色の瞳が、全身の皮膚という皮膚が――いま体験したばかりの狂おしいほどの歓喜と、世界観の崩壊による凄惨なショックで打ち震えていた。
(なに……? いまの……なに……っ!?)
鮮烈だった。
神聖だった。
完璧だった。
自分が今まで最高のおもちゃとして誇っていた魔法の糸も、丹精込めて手入れし愛でていた自慢のビスクドールたちも。自分が天階階位8位という頂点の一角に君臨しているという事実すらも――取るに足らない。
あの黒いコートの少女が見せたのはお遊びではない、本物の戦う技術――最上位の魔法少女として、多くの闘いを経験してきたプレシアには分かる。あれは、あれこそが“真に怪物と戦う技術《力》”なのだと。あの空間を歪めて咲き誇った清浄なる火。途方もない程の研鑽を重ねたであろう研ぎ澄まされた意思。アレに比べれば、自分の力や自身は所詮ただの安っぽい砂の城、泥細工でしかなかったという絶対的な敗北感。
世界は自分が指先ひとつで糸を引くためのおもちゃ箱だと思っていた。
下界の人間も、防衛局の魔法少女も、湧き出る怪物すらも、すべては自分の気まぐれで踊らせ、切り刻み、繋ぎ合わせるための泥人形に過ぎないと信じて疑わなかった。
だが、違った。この世界に『本当《真実》』の存在は、先程目の前にいたのだ。
この自分を――天階階位のランカーであるプレシアを、ただの『守るべき一人の子供』として扱い、思いの外小さい背中で庇い、傷一つつけずに完璧に守り切ってみせた。もし、プレシアが本当に無力な子供でも結果は変わらなかったと断言できる。
(……あはっ、あ……っ)
プレシアは、自らの華奢な手首を、黒瀬に引き寄せられていたその場所を、爪が食い込むほどの力でぎゅっと握りしめた。肌の奥に、まだあの人の温度が残っている。痛ませないように、けれど確実に守るために手繰り寄せてくれた、あの力強い指の触感が、痺れるような熱となって残っている。
そして、鼻腔をくすぐり続ける、あの冬空のように澄んだ冷たい薫り。
触れられた手首から全身へ、毒のように、あるいは解毒剤のように染み渡っていく「それ」は、プレシアの人生。そして強大な魔法少女で培ってきた歪んだ自尊心と全能感を、跡形もなく溶かして塗り替えていく。
支配者でいることなんて、もうどうでもいい。人形遊びなんて、下界の観賞なんて、あまりにも浅ましく退屈な戯れだった。
あの圧倒的な絶対者の足元に跪きたい。あの指先で糸を繋がれ、あの人の意のままに動かされる――あの人のためだけの『一番のお人形』になりたい。
胸の奥で、歪んだ狂信と凄惨な恋情の芽が、恐ろしい速度で根を張り、真っ黒な大輪の花を咲かせていく。
「……ね、ねえ、プレシアちゃん……?」
バッグの底から、パートナー妖精のクロトが恐る恐るボタンの瞳を覗かせた。クロトの全身の縫い目から、引きつった汗のような冷や冷やとした気配が漏れている。
妖精の中でも、歴戦のクロトは理解していた。目の前でひざまずく少女の内部で、いまや破滅と呼ぶにふさわしい異常な熱量が爆発していることを。下手に刺激すれば、自分すらその熱量に巻き込まれて引き裂かれかねないという本能的な危機感。状況が変わった事で、プレシアに新たな魔法少女育成計画を考えねばならないが、ともかくこの爆弾娘が無軌道に炸裂しないようにしなくてはならない。
彼女は意図せずに“開花の時”を迎えつつある。クロトは慎重に、プレシアの激情に触れないよう言葉を選びながら、うまくその場を収めようと立ち回る事にした。
「や、やっぱりあの人、ただ者じゃなかったねぇ……! ほら、変身もしてなかったし……! あ、あのね、プレシアちゃん! ボク、思い出したかも……!」
プレシアは反応しない。ただ手首を握りしめ、荒い息を吐きながら床を見つめている。クロトは冷や汗をかきながら、プレシアの興味を惹くため、今最も彼女が望むであろう情報を検索/弾き出し、滑らかな声で吹き込んだ。
「最近さぁ、SNSとか防衛局の地下掲示板で密かに噂になってる『黒星』って正体不明の怪物狩りがいるでしょ……? 魔法少女の反応がないのに、一人でクラックに入り込んで核だけ持ってっちゃうっていう……! きっと、いまの人……あの『黒星』だよぉ……!」
――黒星。
その単語が耳に届いた瞬間、プレシアの肩が、びくりと跳ねた。
「……へい、しん……?」
掠れた、熱っぽい声がプレシアの小振りな唇から漏れ出る。
「そ、そうそう! 名前も正体も誰も知らないんだけど、いつも帽子を深くかぶってて、黒い服を着てて、凄く冷たい気配なんだって! プレシアちゃんが気にするほどのお人なんだから、絶対に普通の人間じゃないよぉ~!」
クロトは必死に「だから今は追わずに様子を見よう」という方向へ誘導しようと調子を合わせるが、プレシアの脳内でその情報は全く異なる形へと昇華されていた。
『黒星』。
名もなき暗夜の星。誰もその正体を知らず、世界の裏側で孤独に怪物を狩り続ける、絶対の孤高。
(ああ……素晴らしいわ……。防衛局のうっとうしい大人たちにも縛られず、下品な魔法少女たちと同調もせず……ただお一人で、あの領域に立っていらっしゃるのね……っ)
プレシアはうつむいたまま、両手で自らの顔を覆った。指の隙間から溢れ出るのは、見たこともないほど深紅に染まった頬と、濡れたように怪しく歪む氷灰色の瞳。
「……お友達なんて、もういらないわ」
ぽつりと、地下の静寂に落とされた呟き。
「あんな安っぽい私の手作りお人形……全部ゴミくずよ。壊して、かわいくなくとも役立つモノに造りなおすわ。……だって、わたし……“本当”を見つけちゃったんだもの」
「ひっ……!?」
クロトがバッグの中で息を呑む。クロトは自分が育てている魔法少女、天階階位8位『傀儡の女王』の危険性を熟知していた。任務に受け身ながらも此処までの順位を記録しながら、まだまだ伸び盛りの彼女の素養を伸ばす為に様々な事を唆した。それらを第一としながら、更にその上で自らの趣味とも一致する稀有な狂気の魔法少女――同族殺しにすら愉悦を憶える、人の姿をした殺戮者。
だが、成長性を伸ばす事に集中していた育成方針のお陰で、その安全弁ともいうべき理性の構築は最低限に留め、後回しにしていた事をクロトは後悔し始めていた。今回の反応は、プレシアが単純な見かけ上の力よりも、黒星など持つ極めて強い意思力、その価値を真に理解できる魔法少女にまで育った証でもあったが、今はそれが仇となっている。
プレシアはふらりと立ち上がると、黒瀬が姿を消した非常階段の暗がりへ向かって、ゆっくりと足を踏み出した。その足取りはどこか夢遊病者のようでありながら、全身からはかつてないほどの濃密で凄惨な魔力が、隠すこともなくドロリと漏れ出している。
自分を庇ってくれた、あの冷たくも温かい背中。
自分を子供と扱い、優しく肩の埃を払ってくれた、あの絶対的な手。
「待っていてね……『黒星』様……。いいえ、私だけの、お姉さま……っ」
糸を引く傀儡師の女王は、もうどこにもいない。そこにいるのは、己の世界観を根底から粉砕され、二度と抜け出せない狂おしい災厄――黒瀬澄という絶対者に魅入られ、その手の中で壊されることを渇望する、狂気の魔法少女だった。




