第6話 亡者たちの宴
非常灯の赤い光が明滅する地下二階搬入エリア。
ひんやりとした無機質なコンクリートの通路に、湿った泥が押し潰されるような、不快な水音が重く響き渡っていた。
非常階段の陰、厚い鉄扉の影に可憐な身を潜めたプレシアは、そっと氷灰色の瞳を覗かせた。
(……ふん。やっぱり、ただの腐肉喰らいじゃない)
コンクリートの壁や天井に走る、目立たない細かな次元の亀裂――予報結界すら素通りするほど小規模なクラックから、ドロリと這い出してくる不気味な影たち。
それは異次元の滅びた世界の残骸が腐敗して生まれた、食物連鎖の最底辺に位置する下等存在――『グラットン』の群れだった。
目も鼻もない、泥と黒い肉片、折り重なった骨の欠片が歪に固まった細身の人型。縦に裂けた不気味な口から、人間の声を模した意味をなさない呻き声を漏らしながら、十数体、二十数体と、這うようにして搬入エリアのフロアへ集まりつつある。
(あんな低級の集まり、私のルルやミミが一足蹴りにすれば一瞬でペシャンコよ。わざわざ追って損したわ……)
プレシアは黒いブラウスのポケットの中で、不機嫌そうにキャンディの包み紙を指先で弄んだ。天階階位8位『マスタードール』たる彼女にとって、この程度の小規模クラックなど、あくびが出るほど退屈な茶番に過ぎない。舌打ちを一つつき、変身することすら馬鹿らしくなって踵を返そうとした、その時だった。
カツン、と。
静まり返った薄暗いフロアに、あまりにも澄んだ足音が一つ、静かに落ちた。
「……え?」
プレシアの足が止まる。物陰から視線を向けると、先ほど二階の吹き抜けから飛び降り、人波を逆流していった黒いコートの少女――黒瀬澄が、逃げ惑う一般人など一人もいない殺伐とした地下フロアの中央へ、迷いなく足を踏み入れているところだった。
(なんなの、あの人……? まさか本当に、変身もしないで手ぶらで飛び込んできたの?)
バッグの底で、妖精のクロトが
「ねえプレシアちゃん、あの子死んじゃうよぉ? おバカさんだねぇ。助けてあげる?」
と無邪気におぞましい声を潜めた。だが、プレシアはクロトの言葉を遮るように息を呑む。少女の纏う気が変わったのだ。
黒いコートの小柄な身体から立ち上るのは、魔法少女特有の華やかで煌びやかな魔力などではない。極限まで研ぎ澄まされ、余分な感情や動作を削ぎ落とした、氷のように冷たく静謐な――本物の殺気。
(……っ! なに、これ……魔法少女の魔力じゃないの……!?)
プレシアの背筋に、サッと冷たい戦慄が走った。13歳にしてランカーの頂点に君臨し、数々の魔法少女や強力な怪物を玩具として弄んできたプレシアの直感が、警鐘を鳴らす。目の前の少女はただの人間でも、既存の魔法少女でもない。
だが、黒瀬はプレシアの存在――物陰に潜む微かな呼吸を、見逃さなかった。風を切る微かな気配とともに、クロセの視線が鋭く非常階段の陰へと向けられる。
次の瞬間、目にも留まらぬ身法で間合いを詰められたプレシアは、反応することすらできずにその場で硬直した。
「――子供?」
目の前に現れたのは、夜の闇よりも昏い瞳。黒瀬は物陰に丸くなっていたプレシアの姿を目に留めた瞬間、放っていた鬼気を霧散させた。
腰まで伸ばした美しい漆黒の髪。磁器のように白い肌に、上品でシックなブラウスとスカート。どう見ても、パニックに巻き込まれて逃げ遅れ、怯えて動けなくなった無力な子供にしか見えない。
「……大丈夫」
静かだが、圧倒的な安心感を伴う低めの声。黒瀬はプレシアの華奢で細い手首を、痛ませないよう、引き寄せた。
「ひっ……!?」
プレシアの喉から、柄にもなく小さな悲鳴が漏れた。触れられた手首から伝わる、冷たさと力強さ――馨しき死の薫り。
「……ここは危険。私が安全を確保するまで、私の後ろから離れないで」
黒瀬は素早くプレシアを自分の小さな背中の後ろへと滑り込ませ、自らを盾として進み始める。プレシアは、目を丸くしたまま、目の前の黒いコートの背中を見つめるしかなかった。
(……私を、庇った……? この私が……『守られる側』……?)
世界中の人間も、魔法少女も、怪物も、すべては自分の指先一つで躍らせる玩具だと思っていた。誰かに守られるなどという体験は、彼女の13年の人生において、ただの一度たりとも存在しなかった。
手首に残る冷たさ。鼻腔をくすぐる、澄んだ冬空のような少女の匂い。プレシアの胸の奥で、カチリと、何かのタガが外れる音がした。
(……ふふ。あはは……なにこれ。可笑しい……可笑しいわ……)
プレシアはうつむき、濡羽色の前髪の影で、氷灰色の瞳を怪しく揺らした。自分を一般人と勘違いして庇う、このおバカなお姉さん。正体を明かして、指先の一振りでグラットン達ごとこのお姉さんを糸で縛り上げて驚かせてやろうか。それとも――。
(……いいわ。試してあげる。この私を守るなんて大口を叩いたおバカさんが、あの怪物どもにどこまで通用するのか……高みの見物をしてあげるわ……!)
プレシアの口元に、幼く残酷な笑みが浮かぶ。プレシアはその性質上、怪物の攻撃目標に選ばれにくいように、魔力を隠匿する技術が卓越している。この謎の人物はプレシアの隠形には気が付いたものの、自分が魔法少女であることは見破れていない――ならば、まだ少し流れに身を任せてみるのも悪くはなかった。
非常灯の赤い光が明滅する薄暗い地下フロアに、湿った粘土を捏ね繰り回すような不快な攪拌音が満ちていく。
壁や天井の割れ目から滴り落ちる黒い泥は、床に触れた瞬間に泡立ち、人間の背格好を模した不気味なシルエットへと立ち上がった。無数の骨の欠片と腐肉が不揃いに縫い合わされた、異次元の死骸――グラットン)。
目も鼻もない平坦な顔面にぽっかりと穿たれた縦裂けの口から、無念の死を遂げた者たちの呻きを模したノイズが溢れ出し、一波、また一波と、黒い波濤となって狭い搬入エリアへと押し寄せてくる。
その数は、三十……四十……いや、五十を超える。
下等な怪物とはいえ、閉鎖空間で一般人がこれほどの量に包囲されれば、生きたまま肉を食いちぎられ、泥の胚胎へと呑み込まれる他ない絶望的な光景。
とはいえ、プレシアの手首を庇うように掴み、背中に庇いっている黒瀬はプレシアがパニックにならないか確認しているほどには余裕があった。
(……怪物の個体質量は軽量。耐久性も低い。だが、数が多すぎる。下手に魔力を散らし、辺りに穢れがぶちまけられれば、この少女を巻き込む危険がある)
黒瀬の紅紫瞳が、静寂の中で冷たく光る。彼女の脳内に浮かぶのは、失われた記憶の底から汲み上げられた、対多人数・対異形戦闘の完成されたひとつの戦術。
(――間合いを殺し、ベクトルを奪い、一所に束ねる)
ズ、と黒瀬が右足を半歩引き、深く踏み込んだ、その瞬間。
先陣を切った三体のグラットンが、泥でできた長い前腕をムチのように撓らせ、爪先立つプレシアと黒瀬へ同時に飛びかかった。殺意の刃と化した骨の指先が、空気を引き裂く。
死を予感させる切り裂き音。しかし、黒瀬の体は、まるで水面に落ちた葉のように、その攻撃の軌道の上から滑らかに消失していた。
「――っ!?」
背後で成り行きを高みの見物していたプレシアが、氷灰色の瞳を大きく見開く。
避けたのではない。黒瀬は、迫り来るグラットンの伸びきった腕の肘へ、己の掌を吸い付くようにそっと添えたのだ。
打撃を叩き込むのではない。相手が踏み込んできた運動エネルギー、その重心のベクトルを、ほんの数ミリ――体捌きによって横へと滑らせた。
ズザザッ! と、突進の勢いを削がれることなく流された一体目の『腐人』が、二体目、三体目の怪物へと激しい音を立てて激突する。崩れた姿勢のままもつれ合う怪物たち。だが、黒瀬の舞は、それだけに留まらない。
「――ふっ」
短い呼気とともに、黒瀬が踏み込む。もつれ合う三体の怪物の中心――もっとも密度の高い核が集まる支点へ向けて、黒瀬の小さな拳が吸い込まれるように押し当てられた。
振りのない、溜めのない、零距離から拳。プレシアは知らないその技術は――寸勁。威力を高めるストロークを自らの内部で作り出す事で、密着状態でも有効打を作り出せる。
ドォン……ッ!!
爆発音に似た重低音が、地下のコンクリートを微動させた。黒瀬の拳が触れた一点から、螺旋状に練り上げられた重力波が怪物たちの体内を駆け巡る。高位の魔法少女であるプレシアには、直接的な衝撃波ではない事が分かった。黒瀬が放ったのは魔力を並みの様に体内に打ち込む。そのような技だ。
苦悶の声を上げ、直撃を受けた怪物たちの内臓と泥の肉体が、内部から破裂することなく、外側へと弾け飛ぶ。三体のグラットンは、まるで透明な大型トラックに跳ね飛ばされたかのように弾かれ、後方から迫り来ていた十数体の怪物の群れの中央へ、大砲の弾となって突っ込んでいった。
ガシャンッ! ドゴォンッ!
肉と骨が泥混じりに砕け散る不快な破壊音。押し寄せていた群れの最前線が、自らの同胞の巨体によってドミノ倒しのように薙ぎ払われ、見事に一箇所へと押し潰される。
(……嘘……!?)
プレシアの脳裏に、激しい衝撃が走った。
魔法少女の戦いではない。ランカーたちが誇るような、天を覆うような巨大な魔力放射でも、空間を断裂させるような派手な現象改変でもない。目の前の少女が行っているのは、極限まで磨かれた技術を軸にしたものだ。
位置エネルギーの誘導。相手の攻撃力をそのまま盾に変える体捌き。
そして、一過性の衝撃で敵を殺すのではなく、吹っ飛んだ敵を使い、後ろの敵の退路を塞ぎ、一箇所に集めるという、精密極まる集敵の技術。
左右の壁を這い、黒瀬の死角である頭上から襲いかかってくる新たな四体のグラットン。だが、黒瀬は振り返りすらしない。
トン、と爪先で地を蹴り、黒いコートの裾をひらめかせて僅かに躍動する。すれ違いざま、黒瀬の手首が円を描いた。
流れるような円運動で怪物の鉤爪を受け流し、そのまま相手の首根っこを掴んで力学の軸を反転させる。二体の怪物が空中で遠心力に振られ、首を自ら折るような軌道を描いて、先ほど一箇所に固められた「溜まり場」へと投げつけられた。
ドサッ! ドカッ!
「……な、なに、これ……」
プレシアの喉から、掠れた声が漏れた。
プレシア自身、自分の魔法である概念の糸を使えば、怪物たちを糸で縛り、手繰り寄せ、無理やり一箇所に集めることなど容易くできる。だが、目の前の少女は魔法など一切使っていないのだ。
ただの身体運動と、掌から漏れ出る最小限の魔力制御。それだけで、まるで羊飼いが利口な犬を使って羊の群れを柵の中へ追い込むように、無数に群がる怪物たちを、搬入エリアの中央――直径数メートルの狭い円周状の空間へと、整然と追い詰めていく。
「ズ、ズガアアア……ッ!」
逃げ場を失い、押し込められた怪物たちが、お互いの泥の体を擦り合わせながら、狭い空間で身動きが取れなくなっていく。黒瀬の誘導は、完璧だった。
立ち塞がるその背中。肩を揺らすことすらなく、静かに呼気を整える黒瀬の側顔。プレシアの手首には、今なお黒瀬の冷たさと死の薫りが残っている気さえした。
(……この人、最初から……この狭いフロアで、私に被害を出さないために……っ)
プレシアの胸の奥が、ぎゅっと締め付けられた。試してあげる、高みの見物をしてあげる……そんな自らの幼い傲慢さが、融かされていく。
この少女にとって、怪物など敵ですらない。そして自分は――ただ、その圧倒的な強さの庇護のもとで、静かに守られているだけの無力な存在に過ぎないのだと。
――プレシアは子供なのだと
フロアの中央に、整然と集められた五十体以上の泥の怪物たち。身動きの取れなくなったグラットンの群れを冷ややかに見下ろしながら、黒瀬は静かに、その右手を袖口へと滑らせた。
黒いコートの広い袖口から、滑らかな滑音とともに溢れ出たのは、刃と鈍い銀色の光沢を放つ一筋の繊細なチェイン――縄鏢。
「――陣を敷く」
静かな呟きとともに、黒瀬の手首が微小な円を描いた。
瞬間、地下搬入エリアの空間に、銀色の閃光が幾重にも交錯した。手放された縄鏢の尖端――鋭利な刃を持つ重量鏢が、空気の抵抗すら無視するような絶対的な精度で疾走する。四方のコンクリート柱、天井の鉄骨、床面の打放しコンクリートの支点へ。寸分の狂いもなく打ち込まれる銀の刃。
刃が深々と突き刺さるたび、その末端から伸びる特殊な金属糸が、重力波の伝播経路となって空間を幾何学的に切り裂いていく。
「シャアアアアッ!?」
異変に気付いたグラットンたちが、逃げ出そうと一斉に手を伸ばした。だが、遅い。怪物たちの四方を囲むように張り巡らされた網目は、一瞬にして不可視の魔力壁で閉ざされた檻へと変貌していた。群れ全体を逃さず閉じ込める結界だ。
(……なにあれ……。魔術陣……ううん、違う。なんだろう?見た事はあるような……!?)
物陰で見ていたプレシアは、息をすることすら忘れ、眼前の光景に釘付けになっていた。プレシアが操る概念の糸は、対象の肉体や運動神経、あるいは魔力の流れに干渉して操るものだ。
だが、いま黒瀬が展開した糸の陣は、そのような次元の代物ではない。異なる法則で動くが故に、この地球の法則をある程度無視できる怪物、それに無理やりこの星の法の下に引きずり出しているかのような作用が起きている――今なら、銃火器すら通用するかもしれない。
グラットンたちが檻の中で狂ったように暴れ、泥の腕を叩きつけるが、張り巡らされた縄鏢の糸はピクリとも揺らがない。黒瀬は両手を胸の前で交差させ、静かに、深く――呼気を吐き出す。
「――滅びなさい」
カッ……!
その瞬間、暗く湿った地下フロアの全貌が、眩いばかりの清冽な光によって塗りつぶされた。
縄鏢の糸が画した幾何学模様の陣線――その一筋一筋から、白銀と黄金が混ざり合った、この世のものとは思えぬほど美しい火が爆発的に噴出した。
「ギ、ギャアアアアアアアアアアアアアッ――!?」
攻性結界の内部を満たした白銀の炎に包まれ、グラットンたちの不快な呻き声が、一瞬にして断末魔の叫びへと変わる。
泥の肉体が、黒い肉片が、不気味に歪んだ骨の欠片が。炎に触れた先から、まるで春の陽光を浴びた残雪のように、美しく、儚く、一切の残滓も残さず白い灰へと昇華されていく。
不快な焦げ臭さすら存在しない。ただ、どこか澄んだ冬空を思わせる、清涼な空気と光の粒子だけが搬入エリア一面に満ちていく。
ほんの数秒。五十体を超えていた邪悪な群体は、完全に消滅した。
床に突き刺さり空間を縛っていた縄鏢が、ジャラ……と心地よい金属音を立てて手元へ手繰り寄せられ、黒瀬のコートの袖の中へと滑らかに収まっていく。
炎の残光がゆっくりと収束し、静寂が地下フロアを取り戻す。黒瀬は静かに振り返ると、まだその場から動けずにいる黒髪の少女――プレシアへと歩み寄った。
「……怪我はない?」
黒瀬の声は、先ほどまで圧倒的な武を振るっていた人物とは思えぬほど、優しく、そして静かだった。黒瀬の手がそっと伸び、プレシアの華奢な肩の埃を、優しく払う。
「もう大丈夫。直ぐに助けも来るわ」
そう言って、黒瀬は一切の誇示も、見返りを求めるような視線も向けず、ただ安堵したような眼差しを一瞬だけ向けると、そのまま静かな足取りで非常階段の暗がりへと去っていった。
不気味な怪物も、邪悪な気配も、何一つ残っていない。残されたのは、ひんやりとした無機質な空気と、手首に残る黒瀬の温もり。そして――鼻腔をくすぐる、澄んだ冬空のような少女の匂いだけだった。




