第5話 この世界にに在りて
休日の午後。ガラス張りの吹き抜けから明るい陽光が差し込む大型ショッピングモールは、家族連れやカップルたちの談笑で満ちていた。
その喧騒から一段引いた、二階のオープンカフェ。壁際の小さな丸テーブルに、黒いコートを羽織った小柄な少女――黒瀬澄は一人、静かに佇んでいた。
五味にはああいったものの、“まだ”わざわざ目立つ必要はない。であるならば、抜け道を使い地方都市まで足を延ばすのは悪い選択肢ではない。
緑色のロゴが印字されたプラスチックカップに刺さったストローから、冷たいカフェオレを一口含み、小さな喉を鳴らす。特別なカスタマイズなどしていない、ごくありふれた定番メニューだ。目の前に置いた薄型のタブレット端末には、古い地形図と都市計画のアーカイブデータがスクロールされていた。
(……この近郊の地下に存在する、旧日本軍の地下放出品保管庫。それと、昭和初期に廃線となった地下道……)
画面を指先でなぞりながら、クロセは小さく息を吐く。彼女がこの国で怪物を狩り、コアを拾い集めているのは、第一に生活の為もあるが、協力者である五味の為でもある。
この世界に落ちてきたばかりで右も左も分からなかった頃、生きている怪物に襲われていた中年男を助けた。それが五味だった。以来、彼がかつて命がけで行っていた違法な核の回収をクロセが代行し、資金とこの世界での身分を得るという、奇妙な共存関係が続いている。
だが、理由はそれだけではない。
(……戦うたびに、手繰り寄せられる)
怪物の肉を裁ち、核を穿つたび、失われていた記憶が、脳裏の濃霧の奥から泡のように浮かび上がってくるのを感じる。かつての世界でも、自分はこうして異形の存在と刃を交えていたという確信。
そして――『護るべき誰か』がいたという、胸を刺すような強い使命感。
なぜ戦うのか。その答えはまだ完全には分からない。だが、今だけは戦うことこそが、自分が自分でいるための唯一の証明だった。
(……いつか、己の真の記憶へと辿り着くために)
旧施設の跡地を辿る旅の果て、失われた過去があるという予感。五味は黒瀬を落ち着いていると言ったが、言われた黒瀬本人は必死に焦燥をもみ消しているだけだと自覚し反省していた。それに迂闊な行動も多い。魔法少女を助けるために姿を晒したのは良くなかった。これまでもそのような事はあったが、直接目の前まで出たのは初めてだ。しかし、彼女達を見殺しにする選択肢だけは無かった。
「――ねえ見て、あの服カッコよくない!?」
「あ、本当だ! どこのブランドだろ?」
階下を通り過ぎる少女たちの楽しげな声が耳に届くが、街の喧騒や他人の視線に対して、彼女の心は自分でも驚くほど無関心だった。
(――本当に私は人間なのだろうか?)
そう思った瞬間に思考が逸れた。逸れた先は、戦闘中に出会った魔法少女たちであり、時折街で見かける魔法少女たちだ。魔法少女には通常非常に強力な認識阻害の呪いがかかっているが、黒瀬には何故かそれが効かないため、偶に常人ではない魔力を感知しその正体がわかる。そして分かるたびに微かに胸が痛む。
誰かを護るために身を投じる少女たち。彼女たちは事実上の少年兵だ。それでも、彼女たちが戦わなければこの世界が崩壊するのもまた事実。黒瀬が本能的に敵だと感じる妖精たちの存在すら、この世界にとっては不可欠なシステムなのだと黒瀬は理解していた。憐憫の感情はあっても、根本的な解決は土台不可能な話だ。
(……私にはどうしようもない)
戦う力はあっても、世界を変える力など自分は持ちえない。と、黒瀬は闘う少女たちへの憐憫を振り切り、最後のカフェオレを吸い上げ氷がカラリと音を立てた、その瞬間だった。
――ズ、と。
空間の位相が、歪んだ。
『――緊急警報。地下2階搬入エリアにおいて、高濃度の位相干渉を検知。警戒レベル3――』
モール内のスピーカーから機械的なアラームが響き渡り、人々の悲鳴が一瞬遅れて弾けた。ガラス窓の向こう、モール中央の吹き抜けの空間が、まるで黒い絵の具を溶かしたようにドロリと歪み始めている。
(……クラック、地下からか。予報結界が作動していない以上、直ぐに片付けないと犠牲者が出る)
黒瀬は落ち着いた手つきでタブレットをバッグに収め、飲み干したカップをゴミ箱へと捨てる。周りの客がパニックになって階段へ押し寄せる中、彼女だけが逆流するように、静かに地下への非常階段へと足を向けた。
同じ休日の午後。降り注ぐ陽光が眩しい大型ショッピングモールの三階、吹き抜けを見下ろすガラス手すりの傍ら。
「……はあ。やっぱり、どこを見てもつまらない人形ばかり」
ぽつりと落とされた小さな呟きは、周囲の賑やかな家族連れや買い物客たちの笑い声に掻き消された。
そこに佇んでいたのは、一人の小柄な少女――人形原プレシア。
ロシア人の父と日本人の母から受け継いだ、磁器のように血色感を排した白く滑らかな肌。腰まで一直線に伸びた光を吸い込むような濡羽色の黒髪と、顔まわりを美しく切り揃えた完璧な姫カット。シルバーのハトメが打ち込まれたシックな黒のブラウスに、深い紺色のフレアスカート。私立修道学院の厳格なお嬢様らしい装いは、周囲のカジュアルな買い物客たちの中で異彩を放っていた。
透き通るような氷灰色の瞳は、まばたき一つすら稀で、まるで高級なガラスケースからそのまま抜け出してきた精巧な人形のようだった。通り過ぎる大人たちが思わず足を止め、その浮世離れした美貌に息を呑んで振り返るが、彼女は視線すら向けない。
プレシアにとって、このショッピングモールに来ることは息抜きであり、同時に下界の観賞に過ぎなかった。
重厚な洋館の自室で、完璧なお手入れを施されたアンティーク・ビスクドールたちを愛でる日々。あるいは戦場で、自らの能力。概念の糸を用いて、怪物も時と場合によっては魔法少女すらも全て自分のおもちゃとして操り、惨殺し合わせる日常。
そのどちらにも少しだけ飽きた時、彼女は屋敷の執事やメイドの目を盗み、ハイヤーを途中下車してこうした大衆の集まる場所へ紛れ込む。
「みんな、自分が意思を持って生きてるって勘違いしてるわ……私が指先をちょっと動かすだけで、みんなくにゃくにゃになって、自分でお腹を切り裂いて踊り出すことも知らないで。ふふ」
ポケットの中から取り出したのは、二階の輸入菓子店で買った色鮮やかな海外製のキャンディ。透明なフィルムを指先でシャリ……と不機嫌そうに剥がし、小振りの唇の間に放り込む。合成着色料の人工的な甘さが口いっぱいに広がるが、彼女の表情はぴくりとも動かない。
彼女にとって、自分以外の人間や魔法少女はすべて玩具だった。
天階階位8位――傀儡の女王、マスタードール。
14歳にして頂点の一角に君臨する彼女の世界観は、極限まで歪み、そして完璧に自己完結していた。世界は自分の手の中で弄ばれるために存在しているのだと、本気で信じ切っていたのだ。
その時、ショルダーバッグの隙間から、継ぎはぎだらけのウサギのぬいぐるみ――パートナー妖精の『クロト』が、ひょっこりとボタンの瞳を覗かせた。
「ねえねえ、プレシアちゃん。あっちのフードコートにいる男の子、足を糸で引っ張って転ばせてみようよぉ。持ってるアイスクリームが顔にくっついたら、すっごく可愛いと思うんだよねぇ!」
「……ダメよ、クロト。今日は『お休み』なんだから。そんな安っぽいおもちゃで遊んだら、手が汚れちゃうでしょ」
「ちぇー。プレシアちゃんはいじわるだなぁ。せっかくのお出かけなのにー」
幼く無邪気なおぞましさを孕んだクロトの提案を、プレシアは冷たく脚下する。
そう、今日はわざわざ不自由な人形たちの戯れを高みの見物しに来たのだ。余計な力を使って警報を鳴らされたら興ざめもいいところだった。
プレシアはキャンディを転がしながら、二階のオープンカフェのテラス席へと視線を落とした。そこには、自分と同じように喧騒から離れ、冷たいドリンクを飲んでいる人々が見える。
(……かわいいわね。誰も彼も、安っぽい感情で笑って、おしゃべりして。私が本気を出せば、このモールごと全員『お友達』の材料にしてあげられるのに)
そう心の中で嘲笑い、飽き飽きして踵を返そうとした、まさにその瞬間だった。
――ズ、と。
世界の位相が、不快な音を立てて歪んだ。
『――緊急警報。地下2階搬入エリアにおいて、高濃度の位相干渉を検知。警戒レベル3――』
館内に張り巡らされたスピーカーから無機質な合成音声とけたたましいアラームが響き渡り、吹き抜けの底から一瞬の静寂の後、爆発的な悲鳴と怒号が弾けた。
「きゃあああっ! 何、今の音!?」
「逃げろ! クラックだ! 地下から上がってくるぞ!!」
パニックに陥った人々が、我先にとエレベーターや階段へ押し寄せ、将棋倒しになりそうになりながら逃げ惑う。プレシアは、流れる人波の中で微動だにせず、氷灰色の瞳を冷ややかに細めた。
「……はあ。最悪。せっかくの息抜きだったのに……予報結界すら反応しないなんて、どんだけ貧相なクラックなの?」
舌打ちを一つ。防衛局の規約上、ランカーである彼女が現場に居合わせた場合、クラックの処理は義務づけられている。無視して帰ることもできたが、後で防衛局のうっとうしい大人たちに査察されるのはもっと面倒だった。
「仕方ないわね……。嫌々だけど、あいつらを切り刻んで、新しい『お友達』の継ぎはぎの材料にでもしてあげる……」
プレシアは溜息をつきながら、指先で隠し持った概念の糸を微かに滑らせ、変身の術式を起動しようとした。
――だが。
混乱に陥る二階の通路で、人波を滑らかに擦り抜けながら、迷いなく地下への非常階段へと向かって《逆流》していく「一筋の影」が、プレシアの視界を掠めた。
黒いコートを深く羽織った、小柄な少女。
「……え?」
プレシアの動きが、ピタリと止まった。
周囲の人間が顔を蒼白にして逃げ惑う中、その少女だけが――まるで散歩でもするかのような静寂と、研ぎ澄まされた冷たい殺気を全身から漂わせながら、一直線に死地へと向かっていたのだ。
「ねえ、プレシアちゃん……あの子、なにか変だよぉ? 魔法少女の反応もしないし、防衛局のIDコードも聞こえないのに……」
クロトがバッグの底で、困惑したように声を潜める。プレシアは、指先で弄んでいた変身の糸を、す……と収めた。彼女の胸の奥で、今まで感じたことのない奇妙な好奇心の芽が、小さく顔を出したのだ。
(……なに、あの人? ただの一般人……? いいえ、違う。あの歩き方、あの目……ただのおもちゃじゃないわ)
プレシアの口元に、幼く、残酷な薄い笑みが浮かび上がる。自分の魔力が一滴も漏れてない事を再確認すると、満足気に微笑んだ。
「ふふ……予定変更よ、クロト。自分の手で片付けるのはやめ。……あのお姉さんがどこまで保つか、高みの見物と決め込みましょう」
プレシアは身を翻すと、逃げ惑う群衆の陰に紛れ、黒いコートの少女――黒瀬澄の後を、静かな足取りで追いはじめた。




