第2話 この世界の影で
ネオンの絢爛な光がどれほど地上を埋め尽くそうとも、この街の底には決して陽の光が届かない領域が存在する。
湾岸第8区の地下深く。かつては地下街として開発され、今や排水溝の汚水と打ち捨てられたインフラの廃棄場と化した暗渠の最奥。ひび割れたコンクリートの壁面を伝う水滴が、絶え間なく不快な水音を響かせていた。
錆びついたシャッターが斜めに歪み、半分だけ開け放たれた雑居ビルの地下。表向きは、型落ちした通信機器や二世代前の警察用ドローンのジャンクパーツを並べる中古電子部品店。だが、その実態は、現代の科学警察や防衛省の監視網をすり抜けた違法な異次元触媒、さらには怪物から違法に削り出された呪具の部材が流通する、裏社会の回収拠点だった。
狭い店内に満ちているのは、はんだ付けの油煙と、湿った埃の臭い。そして、その奥底に澱む、獣の脂と腐敗した血が混ざり合った独特の異臭だ。
カタ、と。
雑然と工具が散らかるカウンターの奥で、小型の超音波カッターを握っていた男――「五味」と呼ばれる小柄な中年男が、ピタリと手を止めた。視線を上げると、そこにはドアのセンサーすら反応させることなく、いつの間に立ちすくんでいた影があった。五味は心底嫌そうに眉をひそめ、舌打ちを一つ噛み潰す。
「……相変わらず気味の悪いお出ましだな、クロセ。ドアの光学センサーが壊れたかと思ったぞ」
五味は愚痴混じりに呟きながら、足元に転がされていた古びた冷却用コンテナの脇から、安物の缶コーヒーを一本引っ張り出すと、木目の剥げたカウンターの上へ無造作に転がした。加熱処理もされていない、冷蔵庫の冷気をそのまま吸い込んだ冷え切った微糖の缶コーヒーだ。
黒瀬 澄は、無言でそれを拾い上げた。指先が金属の冷たさを確かめるように滑り、カチ、と小気味よい音を立ててプルタブを引き抜く。機械音の絶えない狭い店内に、その金属質の澄んだ音がひとつだけ静かに響いた。
「……仕事?」
黒瀬の口から漏れたのは、低く、熱量を一切含まない硬質な短声だった。
オーバーサイズの黒いパーカーの上に、無機質なロングコートを羽織った小柄なシルエット。フードを深く被り、その暗がりから覗く紅紫の瞳は、頭上のチカチカと明滅する粗悪な蛍光灯の光すら反射していない。あらゆる光を内部へと飲み込んでしまう深い淵のようだった。
「ああ。湾岸第4区のコンテナ埠頭だ」
五味は手元に戻り、作業台の上で怪物の黒光りする甲殻の破片を研磨用ブラシで磨きながら、顎で画面の消えたモニターの群れをしゃくった。
「海外の密輸組織が持ち込んだ『Ⅳ級・蝕殻種』の死骸が残ってる。だが、ただの掃除じゃすまないぜ。現場の異次元位相が不自然に再活性化してやがる。裏で不法に開けられた小規模なクラックから、侵食種の種子が混じり込んだんだろうな」
「……表は?」
「官民共同開発の『セルリアン』とかいう中堅魔法少女チームが突っ込んだよ。スポンサー名義の配信ドローンを何台も引き連れてな。……だが、まぁ……無理そうらしい。あいつらの輝かしい加護じゃ、あのクラスの装甲の位相を貫けねえ。現場はパニック寸前だ」
五味は作業の手を止め、煙草を咥えてライターの火をつけた。紫煙が天井の換気扇へと吸い込まれていく。
「事情が事情だ。政府の正規回収隊や防衛局の連中が現場を封鎖する前に、現場へ突入してコアと甲殻の良質なところを削り出してきてくれ。礼はいつも通りの額の現金と……お前が探してた“あの”異界触媒の解析データだ。だが、この依頼は危険過ぎる。断っても文句は言わんよ」
黒瀬は缶コーヒーを数口で静かに喉へ流し込むと、冷えた空き缶をカウンター脇のゴミ箱へ静かに放り投げた。
ガトン、と乾いた寂しい音が底で跳ねる。
「……了解」
短くそれだけ告げると、彼女はすでに背を向けていた。黒いコートの裾が揺れ、一瞬前まで確実にそこに存在していたはずの圧倒的な気配が、すっと霧が晴れるように消え去っていく。
「おいおい、気をつけろよ」
五味は煙草を指に挟み、溜息をつきながら作業台の工具を持ち直した。
「相手は魔法少女様たちの自慢の魔法エネルギー波や、精製された魔法実体弾を紙くずみたいにはじくバケモノだ。表のシステムじゃあ、逆立ちしたって殺せねえ代物だからな」
だが、すでに店内の暗がりには誰の姿もなかった。
返答すら残さず闇へと溶けた少女のあとに残されたのは、カウンターの上にぽつんと佇む、缶コーヒーのわずかに冷やされた空気の残り香だけだった。
雑居ビルを出た黒瀬は、夜の湿った空気を胸いっぱいに吸い込んだ。視界の開けた高架下に立つと、遠くの都心部を照らす眩い光と、巨大な立体ホログラム広告が夜空を紫色に染め上げているのが見える。
――これが、彼女が漂着した「この世界」の姿だった。
三十年前、異次元の領域から突如として飛来し始めた怪物「クラックビースト」現代兵器の通用しない恐るべき災厄との邂逅。絶望の淵に立たされた人類へ救いの手を差し伸べたのが、愛らしいマスコットの姿をした超自然存在――『妖精』であった。
妖精たちは適性を持つ十代の少女たちを選び抜き、契を結ぶ。『契約』と引き換えに与えられるのは、概念すら書き換える圧倒的な魔法の加護と――外見上は年齢を重ねない不老の肉体。
現在、政府によって一元管理された公認魔法少女システムは、急増にしてはかなりの善良さをもって機能している。高精度な「予報結界」によって怪物の出現位置は事前に特定され、発生と同時に現場へと展開される広域位相結界。その閉ざされた檻の中に投入されるのは、妖精の加護を得た「政府公認・魔法少女」たちだ。華やかな衣装に身を包んだ魔法少女たちが配信ドローンの前で優雅に討伐を果たす。
結界内において、どれほど凄まじい破壊が巻き起ころうとも問題はない。魔法少女が勝利し、怪物を退治しさえすれば、怪物を構成していた異次元物質は一瞬にして純粋なエネルギーへと還元され、砕けたコンクリートも、破断した鉄骨も、まるで巻き戻されるかのように元通りの街並みへと自動修復される。
人々は犠牲を恐れることなく、安全なモニターの向こうで華やかな少女たちの戦いと配信を娯楽として消費する。不老のアイドルたちには高報酬な手当と妖精郷への渡航権を含む様々な権利が与えられ、街は再生する。
完璧で、善良で、安全なシステム。
——だが、完璧なシステムだからこそ、その影には必ず「歪み」が沈殿する。
内側から意図的に小さな穴を開けられた違法なクラック。
政府の予報網を潜り抜け、結界の展開されない密輸埠頭や地下遺構に呼び出された怪物たち。このような場から現れるモノは大抵が弱いが、到底人が対抗できるものではない。
だからこそ、彼女が必要とされる。
黒瀬 澄。
失った記憶を求めて奔走するこの世界の理の枠外から流れてきた、異世界の亡霊。
クロセは無言で黒いコートのポケットに両手を突っ込むと、地下街の出口から伸びる暗い夜道へと静かに足を踏み出していった。魔法少女たちが眩しい光の中で踊る街の片隅で、今夜も人知れず、異界の刃を振るうために。




