第1話 『落とし屋クロセ』
近代化の波に取り残された湾岸第8区、人気のないコンテナ埠頭。海から吹き寄せる湿った風が、赤黒い霧を埠頭全体へと押し流していた。
潮騒の音に混じって、金属の焦げ付くような臭いが漂う。コンテナの影でタバコを吹かしていた暴力団『山菱会』の若頭・佐藤は、地面に吐き捨てた吸い殻を革靴の先で踏みつぶすと、苛立ちを隠さずに腕を組んだ。
「……おいおい、五味のオヤジも焼きが回ったんじゃねえか?」
霧の奥から足音もなく歩み出てきた影を見下ろし、佐藤は露骨に鼻で笑った。
現れたのは、ダボついたオーバーサイズの黒いパーカーの上に、無機質なロングコートを羽織った小柄な少女だった。フードを深く被り、その影から覗く顔立ちは、どう見ても十代半ばにしか見えない。
華やかな衣装を着た公式の魔法少女でもなければ、密売人が連れてくる物々しい重装備の傭兵でもない――勿論、そんなものを堂々と持ち込まれても困るし、また意味がない。佐藤が依頼した案件は特別なものなのだ。
「お前が噂の『落とし屋』か……ただのガキじゃねえか。何をするのか分かってきたんだよな?ここはごっこ遊びの場じゃねえんだぞ」
政府の最新鋭システム――「予報結界」。
今や都市部に現れる怪物の大半は、出現前に位相結界で閉じ込められ、公式の魔法少女たちが退治する。怪物が倒されれば、その構成物質はエネルギーに還元され、破壊された街並みすら元通りに修復されるという、魔法大災害以前では考えられないようないわば魔法じみたものだが、実際その構築には異界の協力者――妖精の助力を得て完成したもので、肝心な事はそれの精度が天気予報より遥かに高いという事だ。
だが、裏社会の人間は知っている。「結界の内側から意図的に小さなひび割れを開ける」という違法な手法を使えば、政府の予報網をかいくぐり、ごく小さな範囲に怪物を誘い出せることを。そうして呼び出した怪物から高価な「核」や「素材」を削り出し、闇市へ流すのが彼らのシノギだった。
本来なら、そうした非合法な現場の後始末を行うのは、妖精の監視を盗んで稼ぐ違法な魔法少女の仕事だ。だが、眼前のアナクロな少女――クロセは、そのどちらでもなかった。
クロセは、佐藤の揶揄に言葉ひとつ返さなかった。
ただ、手にしていた冷圧缶コーヒーの最後のひとくちを静かに喉へ流し込むと、カチ、と微かな音を立ててプルタブのついた空き缶を離した。手元から落ちた缶は、放物線を描いて脇のゴミ箱へと吸い込まれ、コンと乾いた音を立てて底へ静かに沈んでいった。
「……始めます」
熱量を一切含まない硬質な声。紅紫の瞳がフードの奥で冷たく光った瞬間、赤黒い霧が激しく渦を巻いた。何を始めるのかと佐藤が問い返す前に事態が動く。
ギギギ、ガガガガッ……!
コンテナの陰から現れたのは、歪んだ異形だった。放置された大型油圧ショベルとクレーンの残骸に、粘着質な赤黒い植物の根が血管のように絡みつき、蠢いている。不法投棄された鉄の塊が、怪物の肉体として再構成された「Ⅱ級・鋼蝕種」だ。
「ヒッ……!?吹き抜けの結界もなしに、こんなでけえのが出やがったのか!?」
佐藤が悲鳴を上げて後ずさる。通常、表の現場であれば政府の結界が起動し、周囲のコンテナが潰されようと魔法少女が勝利すれば自動修復される。だが、ここは裏社会が自前で用意した、結界の存在しない密輸埠頭だ。ここで踏み潰されれば、物理的に死ぬ。
重機怪物が唸りを上げ、油圧シリンダーを爆ぜさせながら、家一軒ぶんほどの巨大な鉄のアームを振り下ろしてきた。
風を切り、コンクリートを粉砕する絶望的な質量。だが、クロセは逃げなかった。慌てるそぶりすらない。
ただ、振り下ろされる巨腕の軌道上へ、すっと左手を差し出した。
「おい、バカ! 死ぬぞ――」
佐藤の叫びは、奇妙な静寂に塗りつぶされた。
クロセの華奢な掌が、重機の錆びた鉄板に触れた、その瞬間。まるで強力な磁石が引き寄せ合ったかのように、怪物の巨腕がクロセの手にピタリと吸い付いたのだ。
「……『山嵐』」
クロセがひらりと、流れるような動作で身を翻すと、クロセの手を支点として、怪物が持つ数トンの質量と、地球の重力軸そのものが不可逆な方向にねじ曲げられた。
ズドォォォンッ!
凄まじい破壊音が埠頭に轟く。怪物は己の重さに耐えきれず、自爆するようにコンクリートの地面へと頭部から激しく叩きつけられた。
「な……んだ、今の……!?」
佐藤の目が見開かれる。ただの転倒ではない。クロセの手が触れた場所を中心に、怪物は地面の底――更にその深くへ向かって吸い込まれるように沈み込み、コンクリートに深い蜘蛛の巣状のヒビを刻んでいた。
クロセは息ひとつ乱さず、黒いコートの裾を揺らしながら、次の歪みへと足を進めた。
「お、追い待てよ!クソっ、もうこうなりゃ付いていくしかねぇじゃねぇかよ!」
本来ならば佐藤は依頼を言い渡して離脱するはずだったが、既に怪物――クラックビーストが出現しているのなら話は別だった。しかも想定より遥かに強力な相手であり、もし単独で見つかれば死ぬだけだ。目の前にそれを対処したクロセがいるのなら、付いていくしか佐藤には選択肢がない。
そして、その選択肢を直ぐに後悔する事になる。
埠頭の最奥、コンテナの山を押し潰しながら姿を現したのは、ビルほどもある巨大な港湾用クレーン車型の怪物だった。幾重にも絡み合った鉄骨の隙間から、濁った赤黒い眼球が無数に発光し、殺気とともに太いワイヤー網を撒き散らす。
「ひ、ひぃぃっ! 無理だ、こんなの魔法少女が小隊で対処するレベルだぞ! 逃げろ!」
腰を抜かした佐藤が地面を這いずり回る中、クロセは淡々とした歩調で、その巨大な鉄の足元へ自ら飛び込んでいった。
ワイヤーの雨が、クロセのコートを掠める。クロセは最小限の身体捌きでそれをかわすと、巨躯を支える太いアウトリガーの真横へと滑り込んだ。
両手を、冷たい鉄の脚へ静かに添える。
「……沈みなさい」
クロセが身体の軸を、僅かにひねった。
その瞬間――世界が傾いた。金属が悲鳴を上げる凄まじい摩擦音が響き渡る。ビルほどもあった巨大なクレーン車が、まるで自分の重さに耐えかねたように、あるいは真下の地面が突如として「中空」に変わったかのように、垂直に落下し始めた。
それは崩落などという生易しいものではなかった。クロセの領域が、重機怪物の位相と地面の質量を完全に同調させ、際限のない下方へと強力に投射したのだ。
ドズゥゥゥゥンッ……!!
腹に響く重低音とともに、埠頭全体が激しく揺れた。土煙と砕けたコンクリートの破片が猛烈な勢いで吹き荒れ、佐藤は腕で顔を覆いながら必死に耐えた。
煙と静寂が、ゆっくりと埠頭に戻ってくる。
おそるおそる目を開けた佐藤は、言葉を失った。そこには、先ほどまで暴れ狂っていた巨大な怪物の影も形もなかった。あるのは、コンクリートが円形に美しく凹み、深く押し固められた巨大なクレーターだけだ。
怪物はただ破壊されたのではない。己の質量ごと、二度と這い上がってこられない地中深くの“何処か”へと、物理的に『叩き落とされ、埋め立てられた』のだ。
クレーターの辺縁に、壊れた重機の破片から溢れ出た高純度の核が、数個だけポツンと転がっていた。
膝をガクガクと震わせながら、佐藤は引きつった顔で目の前の少女を見つめた。
「……『落とし屋』ってのは……」
喉を鳴らし、掠れた声で呟く。
「揉め事を話し合いで『落着』させるって意味じゃねえ……。敵を二度と出てこれねえ地の底まで……『叩き落として、埋める』って意味だったのか……」
クロセは佐藤の言葉に答えることもなく、クレーターの底から拾い上げた核を冷圧バッグへ収めると、コートのポケットから古びたスマートフォンを取り出した。
画面を操作し、ある宛先へ向けて「任務完了」を意味する短いテキストを送信しようとする。画面の上部で、小さな通信インジケーターがくるくると回る。
――そして。
『送信失敗:ネットワークに接続できません』
無機質な赤文字が、画面に虚しく浮かび上がった。
この世界には存在しない通信規格。決して繋がることのない、彼女が元いた並行世界のアドレス。政府の美しい結界システムの枠外で、誰に知られることもなく異常な脅威を処理し続けても、その報告がしかるべき場所へ届くことは決してない。
クロセは静かにスマートフォンを伏せ、コートの懐へと仕舞い込んだ。フードの影からこぼれ落ちたのは、どこまでも透明な独白。
「……この場所も、少しだけ静かになりましたね」
クロセは一度も振り返ることなく、暗い海霧の奥へと足を踏み出していった。
あとに残されたのは、綺麗に埋め立てられた巨大な穴と、恐怖に震える男の息遣いだけだった。




