第16話 過ぎたる過ち
荒い息とともに、冷たい血の味が口内に広がっていた。
膝をつき、赤い袴を黒い粉塵で濡らしながらも、紅紫の瞳は一切の揺らぎを見せていなかった。目の前には、幾重にも転がる脱ぎ捨てられた殻。そして、その死骸の山を踏み越えるようにして、傷ひとつない五度目の完全体となったヴァーダンが、ぬっと姿を現す。
滑らかな面具の奥で狂乱する赤き燐光。右腕の位相鞭剣が、空気を削ぎ落としながら低く唸りを上げている。
黒瀬は深く、静かに息を吸い込んだ。記憶をどれだけ探っても、この常識外れの不死性を打破する具体的な方法など、黒瀬澄という人間の頭の中には存在しない。どうすれば勝てるのか、理論も、原理も、公式も、何も分からない。
だが――
手元で握りしめた鴉神剣が、激しい歓喜と切望を込めてドクドクと脈動していた。
頭の理解を置き去りにして、彼女の肉体と手足が、勝手に解を理解して動き始める。理屈ではない。これでなければ、あの怪物を倒し切れないという、絶対的な予感に似た戦術的理論。
黒瀬の指先が、吸い寄せられるように鴉神剣の柄――その機関部に組み込まれた翡翠色の宝珠へとそっと触れた。
黒瀬自身、自分が今から何を解き放とうとしているのか、まったく理解していなかった。
これが、かつて滅び去った真実の世界の欠片であること。それが、どれほどの禁忌の力であるのか。
一歩間違えれば、この戦場はおろか、自らが立つこの世界そのものの存在定義すら白紙に書き換え、崩壊させかねない“究極の禁忌”であることすら――今の黒瀬は知る由もない。
記憶がないからこそ。
彼女は、己の命の危険程度では絶対に使用しないはずの「存在を消し去る力」を、ただ目の前の敵を討つという本能の予感のままに、引き抜いてしまったのだ。
『ガ――――――アアアアアアアアアアッ!!!!』
ヴァーダンが、本能的な滅の恐怖に悲鳴を上げた。
面具の奥の燐光が狂乱を超えて崩壊を始め、位相鞭剣を解き放ちながら、空間の壁を幾重にも破壊して黒瀬へと一直線に突進してくる。これまで見せたことのない、なりふり構わぬ必死の殺意。自分が次の瞬間に消滅するという絶対的な絶望が、この先遣将を真の狂乱へと叩き落としていた。
だが、黒瀬の獣耳には、その狂暴な咆哮すら遠い潮騒のようにしか届かない。
彼女の瞳から、すべての光が消えた。
ただ、遠く――滅び去った何処かの世界の空を見つめるような、透き通った、哀しくも神聖な眼差し。
す、と右腕が動く。
鴉神剣が胸元に掲げられた。刀身の内部で、緑の原典が静かに、そして重厚に目醒めの音を奏でる。
世界の帳面が開かれる音。
黒瀬の唇が、自分自身の意思すら超えて動く
「――|てとらぐらまとん《τετραγράμματον》」
言葉の終わりと同時に、刃先が鋭く開いた。
放たれたのは、破れかけた夜の帳をどこまでも一筋に貫く、静謐で、澄み切ったシアン色の筆跡。
それは、ただの光の刃などではない。
エメラルドタブレットの原典が命じ、世界の因果座標そのものを直接書き換える、絶対の消去。
ビームが描いた直線上の空間において、万物の定義がゼロへと再定義されていく。襲いかかっていたヴァーダンの巨躯、その右腕の位相鞭剣、そして空気を満たしていた禍々しい瘴気のすべてが、シアンの輝きに触れた瞬間から、音もなく「存在しなかったこと」にされていく。
『ガ……ッ!?』
ヴァーダンは即座に「脱皮」を試みた。
ダメージを受けた瞬間に、数メートル先の空間へと自分という存在を書き写し、新しい肉体を生成して逃れようとする――その不死のシステムが、稼働する。
しかし、無駄だった。
シアンの光は、肉体を壊すのではなく、次に脱皮して書き写すための、ヴァーダンという存在の定義そのものを、因果の根底から消しゴムで消すように白紙に戻していたからだ。
転移先の肉体は生成されない。抜け殻を脱ぎ捨てる間すら与えられない。
「自分」という存在の因果座標そのものを失ったヴァーダンは、傷を負うことすら許されず、面具の奥の燐光を儚く明滅させながら、頭先から、鎧から、爪の先まで、まるで初めからこの世に存在しなかったかのように、シアンの光の中に溶けて消え去っていった。
ズズズ……と、ビームが通過した空間の周囲から、何十と転がっていた「黒銀の抜け殻」や「黒い肉片」までもが、まるで常世へ戻る回廊に吸い込まれるように、みるみるうちに昇華し、きれいに一掃されていく。
さらには、地脈に結びついてこの領域を汚染していた異次元の地脈リンクすらも、エメラルドタブレットの符号と共振したことで完全に断ち切られ、妖精達ですら閉じられなかった虚空の穴すら消し飛ばされた。
光が収束する。
轟音も、爆発も、破片の飛び散る音すら存在しない。
ただ、そこにあったのは――世界の帳面から一行だけ、綺麗に文章が書き直されたかのような、圧倒的な白紙の世界と静寂。
シアン色の筆跡は、ヴァーダンの存在を消し去るだけに留まらなかった。
垂直に立ち昇った一条の光条は、頭上に立ち塞がる幾重もの重厚な耐圧コンクリート、何百メートルもの岩盤、さらには東京湾の夜空を覆っていた分厚い暗雲すらも、音もなく「最初から存在しなかった白紙の世界」へと変えながら、遥か天頂まで一直線に突き抜けていた。
崩落の土砂すら落ちてこない。ただ、そこに穿たれた完璧な円筒状の空洞――その遥か彼方、撃ち抜かれた雲の切れ間から、静かな蒼月が覗いていた。
絶望の最深部へと垂直に降り注ぐ、冷たく澄んだ月光。その青白い光線に照らされながら、黒瀬は呆然と天頂の月を見上げていた。




