第17話 誰そ彼そ
「……………………」
静まり返った最深部で、黒瀬はゆっくりと鴉神剣を下ろした。刀身の内部で、翡翠の大僧正が静かに眠りにつく。
彼女の紅紫の瞳は、今しがた自分が消し去った虚無の空間を、ただ呆然と見つめている。自分の手で解き放った光が、どれほど凄惨で、どれほど恐ろしい世界の理の破壊であったのか、その片鱗を肌で感じ取りながら。
「私は……今……何を……?」
圧倒的な静寂が、最深部の空間を深々と満たしていた。
先刻までこの第零実験室を支配していた狂暴な位相ノイズ、耳腔を刺す焦げたオゾンの異臭、そして何十と転がり戦場を埋め尽くしていたヴァーダンの黒銀の抜け殻――そのすべてが、まるで最初から幻影であったかのように、跡形もなく消え去っていた。
シアンの筆跡が通り過ぎた空間は、そこに漂う穢れ、付着した瘴気、死に損ねた亡霊たちの残滓までもが常世へ戻る回廊へと巻き込まれるように昇華され、死の静謐が漂う領域となっていた。地脈との悪しき結びつきすらも遮断され、もはやこの場所から異次元の爪痕が再燃することはない。
完全な浄化。そして、完全な消滅。
「……ぁ……」
黒瀬の細い指から力が抜け、鴉神剣の先がコンクリートの残骸へとカツンと軽い音を立てて接地した。
刀身の内部で妖しく蠢いていた翡翠色の宝珠――|エメラルドタブレットの原典は、何事もなかったかのようにその不気味な光を潜め、冷たい鉱物の質感を静かに取り戻している。
黒瀬はこの世界に来て初めて恐怖していた。膝がガクガクと震え、荒い呼吸が冷えた大気に白く弾ける。自分自身でも瞳孔が定まっていないのがわかる。極限の恐怖に視界が暗くなる。
そして、その視線の先には鴉神剣、異形の大剣があった。
あの光が放たれた瞬間、視界の端で世界の輪郭が微かにブレたのを、彼女の超感覚は確かに捉えていた。
光の刃が穿ち抜いたのは、ヴァーダンの肉体や霊構造だけではない。この世界そのものの存在の余白――空間の織り目を直接切り取り、白紙に書き換えてしまうような、神の領域の愚行。
もし、ほんのわずかに角度が狂っていれば。
もし、出力の調整を誤っていれば。
ヴァーダンという存在だけでなく、この地下遺構全体、あるいは彼女自身が所属するこの次元の定義そのものが崩壊し、存在しなかったことになっていたのではないかという、身の毛もよだつような寒気。
|『名付けと規定』の原典。存在の写本を改変する器。
自分は今、世界の理そのものを崩壊させかねない、恐ろしい暴挙を「無自覚」のままに引き抜いてしまったのだ。
と、その時。ドクン、と胸の奥が激しく脈打った。
「――っ!?」
黒瀬は咄嗟に左手を胸元に当て、激しい頭痛に追われるように眉間を寄せた。脳裏の奥底、固く鎖で閉ざされていたはずの記憶の檻から、濁流のように見知らぬ光景と懐かしい声が溢れ出してくる。
――どこまでも続く、黄金色《黄昏》に染まった誰もいない世界。
――空を覆う、不気味な紫色の亀裂と、落ちてくる黒い星。
――そして、自分の目の前で、優しく手を差し伸べてくれた誰かの影。
『……儚』
(はか、な……?)
頭痛の渦中で、その名前が魂を揺さぶる。
黒瀬澄ではない、別の名。自分であって、自分ではないような、けれど何よりも愛おしく、そして限りなく哀しい、己の真なる名前――『九鬼 儚』。
「あ……ぐ……っ」
光景はほんの数秒で途切れ、激しい痛みの余韻だけを残して闇の中へと霧散していった。
記憶は、戻らない。
自分がかつて何者であったのか、なぜこの名を持ち、なぜ世界の真実を知りながら戦っていたのか――核心のすべては未だ深い霧の向こう側に隠されたままだ。
けれど、確信だけが残った。自分はただの魔法少女などではない。
そして、この鴉神剣と、その奥に眠るエメラルドタブレットが示す力はたかだか辺境の惑星の、一生命体が持ち得て良いものではない。しかし、これを捨てるにしても何処に棄てれば良いのか?偶然見つけた存在が、もしこの恐るべき真実を知らずにその力を使ってしまったら?
(私が、護らなくては……)
黒瀬は深く、深く息を吐き出すと、乱れた髪を指先で整え、胸元の赤い袴に付着した煤を静かに払った。そして、震える手で鴉神剣を拾う。
ヴァーダンという恐るべき異界の将は滅びた。この最深部に残されていた凶悪な次元の傷口も、余波によって完全に浄化され、二度と異界の軍勢がここからは侵入することは叶わないだろう。
戦術的な目的は、完全に果たされたのだ。
長居は無用だった。この場所の異変を察知した防衛局や、他の勢力が動き出す前に姿を消さねばならない。黒瀬は静かに鴉神剣を鞘へと納めた。カチリ、と硬質な金属音が響き、不気味なシアン色の気配が完全に封印される。
彼女が向かったのは、崩落した通路でも、引き裂かれた重厚な鉄扉でもない。頭上――自身の放った一閃が、何百メートルもの岩盤とコンクリートを貫き、天頂の夜空まで穿ち破った竪穴だ。
消去の余波によって分子単位で削り取られた壁面は、まるで研磨された黒耀石のように滑らかで、一切の土砂も崩落の破片すら落ちてこない。その垂直にそびえ立つ漆黒の間隙を、天頂の月光がひと筋の光の柱となって最深部まで照らし出している。
「……ふぅ……」
黒瀬は深く息を吐き出すと、朱の袴を揺らし、地を蹴った。
トン、と最初の跳躍。
垂直な岩壁に足裏が触れた瞬間、靴底から微かな霊気が波紋となって弾け、重力を無視して壁面を路面へと変質させる。
そのまま、彼女は駆け上がった。
垂直の竪穴を、月光の柱に飛び込むようにして真っ直ぐ天へと疾走する。
漆黒の羽織と長髪が激しい上昇気流に煽られて大きく翻り、彼女が壁面を蹴るたびに、残光を孕んだ光の波紋が暗闇の中に幾重にも広がっては消えていく。
壁を蹴る強靭な脚の感触、頬を撫でる湿った地下の冷気が、急速に潮の香りを孕んだ夜風へと変わっていく。
三百メートル、五百メートル――見上げる天頂の月が、急速に大きく、鮮明に広がっていく。
そして――
バッ……!
地下遺構を脱出した黒瀬の体が、夜空へと躍り出た。撃ち抜かれた暗雲の切れ間、蒼い月光が惜しみなく注ぐ東京湾の海上で、彼女の体はひととき重力を失ったかのように夜空に舞い上がる。
眼下に広がるのは、静かに揺れる漆黒の海と、崩壊した人工島の全貌。
黒瀬は空中で軽やかに身を翻すと、静かに舞い降りていった。その姿は、夜の闇に溶け込む黒鳥のように、美しく、そしてどこまでも孤独だった。




