第14話 再開
引き裂かれた巨扉を潜り抜けた先には異様な空間が広がっていた。
【特異点封鎖区画】――かつて『第零実験室』と呼ばれたその最深部。周囲を満たしているのは、光すら屈折させて直進を阻む、黒と紫が混ざり合った濃密な漆黒の霧。浮遊するコンクリートの破片や錆びついた精密機器の残骸が無重力のように漂い、それらすべてが中心に位置する虚空の穴に向かって、歪み続けている。
30年前の実験事故の際、この世界に穿たれ、二度と閉じられることのなかった次元の傷口。
「……くっ」
黒瀬の足が、空間の歪みの最縁部に留まる。空間異常に強力な耐性を持つ黒瀬であっても、この領域が放つ異質さには肌を刺すような寒気を禁じ得なかった。
ここには、この世界を支える「物理法則」などという甘っちょろい概念は欠片も存在しない。あるのはただ、純粋な空間の破綻と、万物を等しく崩壊せしめる破滅の波動。もし、この島を覆う妖精の結界が無ければ、此処を中心として大規模なクラック……いや、門が開いていたかもしれない。
そして――その漆黒の霧の深淵、次元の穴の真上に、それは鎮座していた。
妖精達の秘術と思われる、半透明な翡翠色の幾何学結晶。その内部に閉じ込められているのは、黒銀の重装甲を纏った、長身痩躯の不気味な騎士の姿だった。
重厚な鎧の表面は、油膜のような不気味な玉虫色の輝きを放つ鱗でぎっしりと覆われ、目も口もない滑らかな面具の奥からは、死に絶えたはずの赤き燐光が微かに漏れている。
30年前、現人類の技術では討滅どころか傷つけることすら叶わず、当時の妖精と旧政府が総力を結集して「時間ごと物理空間に凍結・封印」したとされる伝説の怪物。
「これが……30年間、封印されていたもの……」
黒瀬は《鴉神剣》の柄を握り締め、紅紫の瞳でその凍結された影を見つめた。あの虚空の穴の向うには別の世界が広がっている。
(“ここ”から自分は来たのだろうか?)
黒瀬は鞘へとそっと手を添え、黒い穴の深淵を見つめた。私が来たのはこの場所ではないか――そう仮定してみるが、直後に軽く頭を振って否定する。黒瀬がこの世界に落ち延びてきたのはつい数年前のことであり、三十年前ではない。
(でも……この既視感は一体何……? 私は……この存在を知っている……?)
本来であれば、封印された存在は深い眠りの中で永遠に静止しているはずだった。
――だが。
黒瀬が踏み出し、彼女の全身から漂う死の気配が空間を揺らした、まさにその瞬間だった。
『―――――――――ッ!?』
声にならない、空間そのものが悲鳴を上げるような強烈な振動が走った。
翡翠色の幾何学結晶の奥で、死んでいたはずの滑らかな面具が、カチリと音を立てて黒瀬の方向へと向けられる。面具の奥の赤き燐光が、急速に輝きを増し、不規則に狂乱の明滅を始めた。
生存本能の警鐘。
ピキィッ……!
静寂の空間に、鋭い亀裂の音が響き渡る。
時間を凍結していたはずの強固な封印に、内側から無数の亀裂が走っていく。バキバキと音を立てて翡翠の結晶が弾け飛び、黒銀の巨躯が30年の時を超えて、強行再起動を果たした。
ドサリ、と砕けた結晶とともに着地した巨躯は、立ち上がると同時にその全身から異質な圧力を爆発させた。
(……! 封印を内側から強引に砕いたの……!?)
既に臨戦態勢だった黒瀬は、封印を破った怪物の様子を冷静に観察。余りにも強引に封印を破ったため、敵の全身を覆う黒銀の輝きが揺らぎ、怪物の存在強度が大幅に低下していくのを確認しつつ距離を取る。
敵は長身を傾け、滑らかな面具を黒瀬へと固定していた。しかし、その目が黒瀬の腰元に揺れる異形の大剣へ注がれた瞬間――世界のすべてが、破滅的な狂気に塗りつぶされた。
『ガ―――――――アアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアッ!!!!』
面具の隙間から溢れ出たのは、聴覚を、精神を、空間の位相すらも力任せに破壊する、凄惨極まる狂乱の咆哮。
大剣の内部に眠る■■の波動――その微弱な存在の波長を感知した瞬間、怪物の冷静さは跡形もなく吹き飛んでいた。その輝きは、かつて自らの世界を、軍勢を、同胞たちを容赦なく殺戮し地獄の底へと叩き落とした大敵の刻印そのものだったからだ。
対話も、威嚇も、駆け引きも存在しない。あるのはただ、あの忌々しい器を携える者を、存在ごと今すぐこの次元から消し去らなければならないという凶暴な狂気。
怪物は右腕を閃かせた。有機的な金属の節が組み替わり、|蛇の脊椎を思わせる節刃が展開される。
踏み込みの動作すら視認できない超絶的な加速。空間を置き去りにした黒銀の閃光が、黒瀬の首元を刈り取らんと襲いかかってくる。
「――っ!」
黒瀬は間一髪で大剣の刀身を滑らせ、その凶刃を受け止めた。
金属が噛み合う甲高い衝撃音が空間に響き渡り、激しい火花とともに双方の魔力と位相干渉が激しく激突する。
至近距離で交錯する、紅紫の瞳と、狂乱する赤き燐光。
その刃と刃がせめぎ合う圧倒的な拮抗の中で――黒瀬の脳裏に、激しい頭痛とともに雷のような記憶の断片が突き抜けた。
(何……これ……? 私、この異形を本当に知っている……!)
頭の記憶には存在しない。黒瀬としての過去のどこを探しても、こんな不気味な黒銀の騎士と出会った記憶などないはずだった。
だが、握りしめた柄から伝わる体組織の密度、相手の刃が空間を裁断する不気味な軌道、そして何より全身の細胞が、自らの霊体が反応していた。かつて――血と絶望に塗れたどこかの戦場で、己のすべてを賭けて、この命を削り合って倒したという、確かな身体の感触。
失われた記憶の霧の向こう側から、己の口が、その真名を紡ぎ出していた。
「……思い……出したわ……」
黒瀬の唇から漏れたのは、自分自身の声でありながら、どこか遠い世界の自分を思わせる、氷のように冷徹な一言だった。
「……先遣将、ヴァーダン」
名を呼ばれた敵の赤き燐光が、さらに狂暴に跳ね上がった。
かつて自分を地獄へと叩き落とした天敵の再来を確信した敵は、空間を歪めながら、二度目の、そして本当の死闘への咆哮を上げのけた。




