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亡霊魔法少女  作者: 固焼きパン
二章  二章 白紙の記憶、白紙の終焉
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第13話 旧東京港臨海環境保全区域

 


 

 静謐な夜の帳が、潮騒の音とともに東京湾岸の埋立地を深く押し包んでいた。


『旧東京港臨海環境保全区域』――現代の地図からは不自然にその輪郭を消され、表向きは末期に不渡りを出して打ち捨てられた化学プラント跡地として偽装された、いわゆる『忘れられた人工島』。重層的な高圧防護フェンスと、赤錆びた「立入禁止」の警告看板が幾重にも打ち立てられたその敷地は、雑草と蔦が荒々しくコンクリートを侵食し、文明の死臭を放っている。


 だが、地上に存在する崩落した格納庫や赤錆びたプラント群は、すべて巨大な『蓋』に過ぎない。地上ルートは物理的、魔法的に完全に封印されており地下の遺構に到達するのは不可能だ。


 しかし、潮の満ち引きによってのみ現れる、海側の濡れた岩肌に穿たれた極秘の排水口。重厚な耐圧隔壁の暗号電子ロックを熟練の手つきで解除し、静かにその闇の中へと踏み出していく影があった。


 黒瀬澄――漆黒の長髪は夜そのものを溶かし込んだように肩から背へと流れ落ち、歩みに合わせて淡く不可思議な光を反射している。その髪の間からのぞく黒い獣耳は、内側に清冽な白毛を宿し、人ならざる神聖さと異形の気配を静かに主張していた。

 艶やかな赤の袴に、精緻な呪符の意匠が散りばめられた黒衣の羽織。黒いタイツに張られた洗練された簡易装甲、そして腰元に重々しく鎮座する異形の大剣――鴉神剣。


 皮肉にも巫女系の現代魔法少女と言っても差し支えない装い。黒瀬は冷ややかな呼吸をひとつ整えると、錆びついた手すりを横目に、ぬかるんだ地下階段を下り始めていた。


 黒瀬が事前に入手した資料によると、地下1階は行政・セキュリティフロア。暗闇を破り、澄の紅紫の瞳が捕らえたのは、時間が20■■■年代初頭で完全に途絶えた、重苦しい■■末期の官僚的研究所の残滓だった。


 足元で割れる緑色のビニール床タイル。灰色のスチールデスク、褪せた巨大な液晶モニター、そして壁一面を占拠する磁気テープ式の大型計算機が、冷たい沈黙を守っている。


 30年前の「あの日」――突然の破局に見舞われた職員たちが逃げ惑った凄惨な痕跡が、当時の空気のまま凍結されていた。散乱した黄ばんだ書類、砕けたコーヒーカップ、そしてコンクリートの壁にへばりつき、黒く乾ききった古い血痕。


 天井の隅では、途絶えたはずの電源の残滓か、非常用プロトコルの赤色灯が時折「ジジ……」と耳障りなノイズを立てながら、弱々しく不気味な明滅を繰り返している。


 (……30年前。現代の魔法少女システムが確立するより前、人類が自力でクラックの位相干渉を解析しようとした足跡、か)


 黒瀬は静まり返ったフロアに静かに横切る。足を止めず、スチールデスクの間に残された古い磁気テープや端末の山を視線だけでスキャンしていく。防衛局のデータベースすら伏せられていた「旧政府系・異次元位相総合研究所」の正体。しかし、この第一層にあるのは未だ人類の理解の及ぶ科学実験の域を出ない。


 黒瀬の目的はここにはない。彼女の直感が、さらに下層から届く、不穏な歪みを察知していた。微かに感じる怪物《クラックビースト》の気配。しかし、その気配は鋭敏な黒瀬の感覚器官からしても余りにも薄く、実体化しているかすらも定かではない。


 しかし、それでも敵の気配を感じるのは事実。慎重にエレベーターホールを下り更に地下へと降りる。エレベーターのカゴは無く、吹き抜けの竪穴となった底を苦も無く降り、さらに進む。


 重厚な鉛と特殊合金で構築された重圧バリアを潜り抜けると、周囲の空気の質が目に見えて変貌を遂げた。


 地下2階。そこは異世界の理が現実世界を侵食し始めた、不気味な空間の位相解析・検疫実験室《ハザード》領域だった。


 「……これは……」


 黒瀬の眉がわずかに寄る。


 厚さ数十センチを誇る頑強な隔壁が、まるで熱したナイフで蝋を削ぎ落としたかのように内側からひしゃげ、めくれ上がっていた。その切断面は物理的な破壊によるものではない。物質の分子結合そのものが弛緩し、ドロドロに溶けて固まったかのような歪な形状を晒している。


 30年前の実験事故の際、漏れ出た異常な異次元粒子は、このフロアのあらゆる物質の性質を不可逆的に書き換えてしまっていた。


 コンクリートの壁面はある場所では鏡のように滑らかな黒い結晶へと変質し、またある場所では有機的な肉塊のように不気味な脈動の痕跡を残して波打っている。観察用のアクリルガラス越しに見える密封実験室内には、途中で放置された金属製の検体が、異界の植物を思わせる禍々しい黒紫の結晶群に呑み込まれ、原形を留めずに群生していた。


 何より異常なのは臭いと感覚だ。


 古い油と錆の腐臭に混じって、焦げたオゾンと、鼻腔を刺す甘く爛れたような臭気が漂っている。普通の人間――いや、現代の並の魔法少女であっても、この場に足を踏み入れれば数分と持たずに精神を汚染され、五感を狂わされるであろう高濃度の位相ノイズ。


 しかし、澄は素肌を包む黒衣の羽織の布地――そこに打たれた呪符の意匠を微かに脈動させ、この凶悪な環境毒素を当然のように無効化していた。


 彼女の足取りには微かな揺らぎもない。


ト、と静かな足音だけを響かせながら、変質した廊下を突き進む。緊張する黒瀬とは裏腹に、その身体は慣れ親しんだ道を歩く様に踏破して見せる。


 さらに深く、垂直に穿たれた搬送用エレベーターシャフトの残骸を縄鏢のワイヤーを滑らせて降下した黒瀬を迎えたのは、果てしない暗黒と異常な空間だった。


 地下3階。そこはドーム状に削り出された、広大な大空洞《キャバーン》――。


 中央には、かつて旧政府が総力を挙げて建造したであろう、巨大な粒子加速器を思わせるリング状の巨大遺構が鎮座している。だが、その巨躯は半ばから無残に歪み、折れ曲がっていた。


(……通常空間の法則が、崩れている)


 黒瀬は闇の奥を見据えながら、総毛立つ身体を抑えられなかった。ここには、もはや現実世界の距離感や重力の法則が正しく機能していない。


 目尺ではわずか十メートル先に見える破砕された実験台の壁が、実際に気配を探れば数百メートル先の彼方に落ち込んでいる。逆に、はるか遠方に見える崩落した天井の瓦礫が、まるで目と鼻の先に浮遊しているかのような強烈な遠近感の狂い。


 視界の端では、トン単位の重量を持つ鉄骨やコンクリート片が、無重力空間のように宙に浮いたまま、微動だにせず固定されていた。


 そして――何よりも不気味なのは、ここを支配する絶対的な静寂だ。


黒瀬の足音すら、着地した瞬間に空間の歪みに吸い込まれ、一小節の音すら周囲に伝播しない。音の存在そのものが拒絶された無音の世界。


 しかし、耳ではなく霊体を砥ぎ澄ませば、そこには絶え間なく鳴り響く狂気のノイズが存在しているのを確認できる。


 30年前にこの歪みに呑み込まれ、肉体を失った研究者たちの叫びにも似た残留思念。そして、空間の亀裂の隙間から漏れ出る、次元と次元が擦れ合って悲鳴を上げる金属音のような、低く不快な振動。


「普通の魔法少女なら、ここに入った瞬間に魔力回路を掻き乱されて自滅する……。けれど」


黒瀬の紅紫の瞳が、暗闇の中でより一層強く、妖しくきらめく。


 彼女の足先が、ふわりと空間の歪みを踏みつけた。距離感が狂い、重力が破綻した大空洞を、彼女はあたかも平坦な回廊を歩むかのように、洗練された独自の歩法で滑らかに通り抜けていく。


 物理の法則が死に絶えた迷宮を、己の存在の軸を一切ぶらすことなく踏破していく。


 やがて、その歩みの先に、巨大なリング状遺構の最深部――現実世界と異次元の境目が完全に崩壊した、黒と紫の漆黒の霧が渦巻く【特異点封鎖区画】の巨大な扉が、無惨に引き裂かれた姿で佇んでいるのが見えてきた。


 その奥から漂ってくるのは、これまでの侵食など前座に過ぎないと言わんばかりの、地獄の底から吹き上げるような圧倒的な瘴気《穢れた魔力》の薫り――怪物《クラックビースト》の気配。


 黒瀬は腰の《鴉神剣》の柄にそっと細い指を添え、冷然とした瞳で、その深淵の暗がりへと足を踏み入れた。



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