第12話 抜け道
都市の宵闇は、表向きには煌びやかなネオンと絶え間ない喧騒に彩られている。だが、その華やかな世界のすぐ下にも、幾重にも重なった「世界の外側」へと繋がる隙間が数多く存在していた。それを認知できる存在は、そのほとんどが遠く伝説の中へと消え去った今でも、それらの“抜け道”は変わらず存在している。
細い路地の物陰で、黒瀬は静かに息を潜めていた。
彼女が身に纏っているのは、変身した魔法少女のような完全武装の姿だ。こんな姿を万が一にも通行人に見られれば、一発で大騒ぎになるし。人目に付くわけにはいかない。
だからこそ、黒瀬は“抜け道”を利用して移動する事に決めた。
どこにでもある雑居ビル街の細い路地。自動販売機の淡い光が濡れたアスファルトを照らし、遠くからは幹線道路を走る車の排気音や、酔客の乾いた笑い声が途切れ途切れに聞こえてくる。現代の日常――誰もが疑うことのない、平盛な虚構の表面。
黒瀬は周囲を警戒しつつも。通行人の気配がないことを完全に確認すると、彼女は決心したように視線を落とす。黒瀬は監視カメラに自らの姿が映らないことは知っているので、普段通りの姿ならば通行人の一人や二人は気にする必要なく“抜け道”を利用できるが、この姿ではそうはいかない。
侵入のトリガーは、大掛かりな儀式や魔法陣などではない。必要なのは、“それ”を見つける感覚と、世界の隙間への微細なスライドするための技術。
ふと、耳元をかすめた不自然な風の音――あるいは、路地の奥で硬貨が転がるような、奇妙な金属音。誰もが「何だろ?」と無意識に振り返り、スマホに落としていた視線を泳がせる、ほんのコンマ数秒の隙間。
そ の瞬間にこそ、日常と非日常の境界線は、何の前触れもなく静かに融解する。
黒瀬は目当ての地点に到着すると、右足の歩幅をわずか一寸だけ横へずらし、影の落ちるビルとビールのケースの「死角」へと、吸い込まれるように身を躍らせた。
――ピタッ。
空間から、あらゆる音が途絶えた。
さっきまで聞こえていた遠い車の環境音、ビル風の吹き抜ける音、秋を目前にして叫ぶ夜蝉の鳴き声すらも、ハサミで紙を切り取ったかのように一瞬で完璧に途絶する。
代わりに立ち込めるのは、鼓膜を圧迫するような重苦しい無音。そして、あちこちの暗がりから無数の視線が、肌を刺すような気配となって立ち上がってくる感覚。
日常の世界から、世界の理が少しだけズレた隙間への侵入は、何時も通り正常に成功した。
(……やっぱり、通れた……)
黒瀬は足元を確かめながら、静かに息を整えた。
ここには明確な扉も境界線も存在しない。普通の人間の知覚では決して気づくことすらできず、たとえ偶然迷い込んだとしても、恐怖と混乱のうちに二度と元のレイヤーへ戻れなくなるだろう。或いは運よく元の世界へと戻れても、驚くほどの時間が経過している可能性もある。
自分の異様な姿を隠すには格好の場所でもあり、うまく使えばほんの短時間で信じられない程の長距離を移動する事も可能だ。黒瀬はこの不気味な抜け道の歩き方を、教えられるまでもなく本能的に熟知していた。
どの壁の影を踏めば空間の歪みに捉われずに済むのか。どの死角を曲がれば、地理的な距離を無視して東京湾岸の極秘エリアへと一足飛びに跳べるのか。体が、足先が、呼吸のタイミングが、勝手に最適解を選び取っていく。
(記憶を失う前の私は……いったい何者だったのだろう? なぜ、こんな“抜け道”を当たり前のように知っているの……?)
この“抜け道”を通るたびに湧き上がる、失われた自分自身の正体に対する戸惑いを、再び“いつもの通り”思考が飛び忘れ去ると、周囲を警戒しながら暗く細い「隙間の回廊」を突き進む。
――ガヤガヤ……アハハハッ!
不意に、すぐ目と鼻の先にあるコンクリート壁の向こうから、恐ろしいほどの密度で雑踏の音や楽しげな人々の笑い声が漏れ聞こえてくる。
提灯の揺れる音、下駄の鳴る音、祭りの賑わい。それは現代の東京のものではない。大正か、あるいはもっと古き時代の、かつてこの土地で営まれていた人々の活気の残滓が、レイヤーのズレによって壁一枚隔てた向こう側に響いているのだ。
誰もいない壁の向こうから聞こえる、楽しげな生者の声。
もし、この声に惹かれて壁の隙間を覗き込んだり、コンクリートを壊そうとすれば、その瞬間に空間の位相が弾け、人間は二度と現代のレイヤーへ戻ることはできなくなる。つまり、神隠しの犠牲者となるのだ。
「……」
黒瀬は壁の向こうの賑わいには一切の視線を向けず、装甲の隙間を隠すように羽織を深く抱え直し、気配を殺してただ黙々と死角を繋いでいく。
人々の記憶から忘れ去られた都市の「縫い目」を幾重にもくぐり抜け、距離と時間を歪ませながら進むこと数分。
やがて、鼻腔を突いたのは、異界の瘴気の匂いではなく――潮の香りと、突き刺すような夜の海風だった。
トンネルの出口のように開けた視界の先には、漆黒の東京湾が広がっていた。
そこは『旧東京港臨海環境保全区域』へと向かう、湾岸ギリギリの防波堤の先端。背後には巨大なクレーンやコンクリートの埠頭が夜の闇に沈んでいるが、黒瀬の眼には、前方の黒い海原の遥か彼方に、地図から消された忘れられた人工島の黒いシルエットが不気味に浮かび上がっている。
普通であれば船を出すか、航空機からの降下を余儀なくされる絶海の人工島。人工的に造られた海上要塞には第二海堡などもあるが、それらと違いこれから向かう先に渡る正規手段は一切存在しない。
「……ふぅ……」
黒瀬は防波堤の縁に立ち、紅紫の瞳で濡れた海面を見据えた。そして、跳躍の予備動作すら置かず、そのまま静かに、黒い海原の上へとその足を踏み出す。
ト、と軽やかな音が響いた。
黒瀬の足先が海面に触れた瞬間、彼女の靴底から微かな瘴気《魔力》が波紋となって広がり、足下の海水を一瞬で踏みつけ可能な硬度へと変質させたのだ。
そのまま、彼女は走り出した。
夜の海面を、まるで鏡の上の平原であるかのように、一切の減速もなく疾走する。
漆黒の長髪と黒衣の羽織が夜風を孕んで大きく揺らめき、彼女が足を踏みつけるたびに、黒い海面にシアンを帯びた波紋の輪がいくつもいくつも浮かび上がっては消えていく。
海面を「走る」その姿は、物理法則をあからさまに足蹴にする悍ましさと、同時に何処か神聖な美しさを纏っていた。
押し寄せる高波すらも、黒瀬は洗練された歩法で軽やかに跳び越え、あるいは刃のごとき跳躍で波頭を蹴り裂いて前進する。
視線の先には、潮風に晒されて赤錆びた巨大なコンクリートの廃ビルと、雑草と蔦に覆い尽くされた『旧政府系・異次元位相総合研究所』の地上の残滓が、急速に近づいてくる。
海流が激しく渦巻き、潮の満ち引きによっての僅かな時間姿を現す、人工島の海側に穿たれた極秘の排水口。唯一の侵入ポイント。
黒瀬は海面を滑るように減速すると、水しぶきひとつ立てずに排水口の濡れた岩肌へと軽やかに着地した。濡れたコンクリートの冷気と、耐圧隔壁の奥から漏れ出る不気味な異次元粒子の気配が、彼女の黒い獣耳を微かに揺らす。
「……」
黒瀬は獣耳を軽く動かして粒子を振り払うと、腰の鴉神剣の柄に手を添え、黒瀬の紅紫の瞳が暗闇の深淵を見据えた。そして静かに息を整えると、重厚な耐圧隔壁のロックを解除し、地下遺構の闇へと足を踏み入れていった。




