第07話
明け方の冷気が、足元から音もなく這い上がってくる。
ほんの数刻前まで二人を甘く包み込んでいたあの微睡むような熱は、出陣を告げる重い銅鑼の響きと共に容赦なく霧散していった。
薄闇が満ちるなか、寝所を支配するのは冷たく鈍い金属音。
鎖帷子の擦れ合う音や、革紐をきつく締め上げる硬い軋みを聞きながら、私はただ静かにその背中を見つめる。
玄色の甲冑を身に纏う彼は、すでに日常を共にした愛しい夫ではなく、血と泥に塗れる過酷な戦野へと赴く、一人の『将軍』の貌へと変わっていた。
その張り詰めた広い背中を見つめながら、夜を徹して針を進め、ようやく仕上げた布地を両手に抱え直す。
指先に触れるのは、上質な絹の滑らかな感触と、幾晩も針を刺し続けたせいで残る小さな生傷の疼き。
地に伏す黄金の虎と、その頭上を導くように舞う鮮やかな青と赤の鳥――それは、私が彼のために祈りを込めて縫い上げた、猛虎と飛鸞の戦袍に他ならない。
そっと背伸びをして、その広い肩に戦袍を掛ける。
皮膚一枚の距離で触れた甲冑の氷のような冷徹さに、思わず身震いした。
触れた端から指先が急速に熱を失ってゆくのが分かる。これから彼は私から遠く距離を置き、この凍てつく鉄の塊だけを肌身離さず生きていかねばならない。その容赦のない現実が、喉の奥をきつく締め付けて離さない。
「……鸞」
振り返った彼が、私の華奢な肩を力強く引き寄せた。
「っ……」
冷たい鉄の胸当て越しに伝ってくるのは、胸の奥で早鐘のように打つ切実な心拍。
とん、とん、と早く、けれど確かに脈打つその命の振動を、私は肩越しに確かめるようにして静かに受け止めていた。
零れ落ちそうな涙を必死に奥歯で噛み締め、妻としての矜持を保ちながら、私は編み上げたばかりの二本の組紐を、彼の大きな掌へとそっと握らせた。
一本は、老虎の無事を祈って。もう一本はどれほど離れていても、魂だけは離れないようにと願いを込めて、その一結び一結びに、声にできなかった祈りのすべてを縫い込んでいた。
「これを……私だと思ってください。老虎。どんなに遠く離れていても、私の魂は常に貴方の傍にあります」
「ああ……分かっている」
ざらついた赤い絹糸の感触を、彼は壊れ物でも扱うかのように指先で愛おしげに包み込み、甲冑の奥、心臓に最も近い懐へと深くしまい込んだ。
「必ず生きて、この場所へ……お前のもとへ帰る。俺の命は、もう俺一人のものではないからな」
「はい……お待ちしております」
行かないでと、その胸に縋り付いて泣き喚きたかった。
喉の奥がぎゅっと狭まり、言葉にならない塊がせり上がってくるのを覚える。
けれど、彼の決意を鈍らせるような真真似だけは決して許されない。
外から全軍の出立を告げる重々しい角笛が鳴り響き、低く長く尾を引くその音が、腹の底までを重く震わせる。
彼は私を一度だけ深く抱きしめると、無言で踵を返し、扉の外で嘶く黒馬へと跨った。
手綱を引き絞る横顔は、すでに戦場の修羅そのもの。
一度でも振り返れば二度とこの地を離れられなくなることを互いに知っているからこそ、ただの一度も振り返ることなく晶陵の屋敷を後に疾駆してゆく。
遠ざかってゆく地鳴りのような蹄の音が、私の心臓を少しずつ削り取っていく。
冷たい朝の風が吹き抜ける中、私はただ祈るように両手を組み、視界から完全に消え去るまで、その大きく逞しい背中を見送るしかなかった。
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