第08話
彼が晶陵の街を去ってから、早くも幾度かの月日が流れた。
夜明けを迎え、一人でゆっくりと目を開けるたび、彼のいない寝所はひどく寒々しく感じられる。
かつて二人で身を寄せ合い、溶け合うような熱を共有していた。彼がいるはずの場所をそっと撫でてみても、残された褥からは微かな冷たさが指先に伝ってくるだけだ。
戦乱の渦中にある北の地からの報せは途絶えがちであり、無事を知らせる短い書状すら、いつ届くのか見当もつかない。
静まり返った夜の闇の中で、ふと彼が二度と戻らないのではないかという暗い不安が走破してくる。けれど、私はその度に、かつて彼が永安へ遊学していた頃の記憶を強く抱きしめ、必死に自分を奮い立たせていた。
あの時も、私たちは遠く離れ離れだった。
顔を見ることも声を聞くこともできず、ただ届く手紙だけを待ちわびる日々。けれど、私たちの絆が揺らぐことは一度としてなかったのだ。
彼が認めた秀麗な文字と、私から送り続けた手製の組紐。あの赤い絹糸が、見えない距離という壁を越えて二人の魂を確かに結びつけ、同じ未来を見据える力となってくれていたのだから。
だから、今回もきっと大丈夫。
夜を徹して縫い上げた猛虎と飛鸞の戦袍が、必ず彼を刃から守ってくれる。彼が身に纏う甲冑の奥深く、胸に最も近い場所で、私が託した組紐が彼の命を繋ぎ止めているはず。
私は冷たい褥をぎゅっと握りしめ、ゆっくりと深く息を吐き出した。
泣いて待つだけの女にはならない。私は、彼の妻なのだ。彼が帰るべきこの場所を、いつでも温かく保ち続けることこそが、今の私にできる唯一のことなのだから。
◆◇◆
晶陵にある陰家の居間には、温かな花茶の香りが漂っていた。
湯気がふわりと立ちのぼり、頬に触れたは消えてゆく。母が淹れてくれた茶の温もりが、掌からじんわりと心へ浸透していく。
向かいには兄。
そして私の隣には、彼が遠征へ向かってからこの家で寝食を共にしている寧が肩を寄せており、弟は、そんな私たちの不安を和らげるように静かに詩歌を口ずさんでくれていた。
誰もが劉寧を実の家族のように慈しみ、不穏な外の風から守ろうとしてくれている。
平和な内と血生臭い外を隔てる壁の中で、私の心はどこか上の空だった。
「鸞、茶が冷めるぞ。……無理をして笑わなくていいんだぞ」
兄が心配そうに見つめてくる言葉にハッとして、自分の顔がひどく強張っていたことに気づく。
気丈に振る舞い、誰も心配させまいと微笑みを貼り付けていたつもりだったけれど、家族は皆、私の心に空いた穴を見抜いているのだ。
「……大丈夫です、お兄さま。老虎は、きっとすぐに戻ってきます」
私がそう言うと、隣に座っていた劉寧が、こらえきれなくなったように肩を震わせた。
握りしめられた彼女の手は、私のものよりもずっと冷たく凍えている。
「……小鸞。お兄ちゃんは、本当に戻ってきてくれるのかな……」
ぽろりと落ちた涙が、彼女の膝の上で小さく弾ける。
私は胸が締め付けられる思いで、震える彼女の肩を優しく抱き寄せた。普段は誰よりも明るい彼女でさえ、たった一人の兄の不在と絶えない不穏な噂に、耐えがたいほどの孤独と不安を抱えているのだ。
「寧姉、泣かないで。彪哥は必ず帰ってくるよ。お姉さまも信じているんだから、僕たちも信じよう」
そう励ましてくれる陰歆の言葉に、私は力強く頷いてみせる。
皆が私と劉寧に気を使い、励ましてくれる優しさが嬉しく、同時に痛い。彼らもまた彼を愛し、無事を祈ってくれているのだから。
けれど、現実は無情である。
平和な晶陵の空の下、こうして穏やかな時間が流れている間にも、晋陽では想像を絶する凄惨な殺戮が繰り広げられている。断片的に届く戦況の噂は、耳を塞ぎたくなるようなものばかり。
彼が率いる軍は四十二万もの敵の大軍に完全に包囲され、血を啜るような泥沼の戦いを強いられているという。
仲間が次々と命を落としていく中、彼は今もまだ、あの組紐を胸に抱いて戦っているのだろうか。
――どうか、天の神よ。
――彼が無事に帰ってきますように。
私は家族の前で努めて平静を装いながらも、心の中では絶えず、引き裂かれそうな祈りを繰り返していた。
彼が泥に塗れて死の淵を彷徨っているかもしれないという恐怖が、少しずつ、確実に心の均衡を削り取ってゆく。
それでも私は、彼が必ず帰ってくると信じ抜かねばならない。私が信じなければ、誰が彼の帰る場所を守れるというのだろう。
白くなるほど固く指先を組み合わせ、ただ彼が生きているというその一点だけを心の拠り所にして、私は冷めていく花茶をじっと見つめていた。
◆◇◆
晶陵の夜は、どこまでも深く、残酷なほどに静かだった。
家族と過ごす温かな居間から自室へと戻り、一人きりになった途端、昼間は必死に貼り付けていた気丈な妻の仮面が音を立てて崩れ落ちる。
灯りを落とした部屋の暗闇が、遠い北の地との間にある途方もない距離と、情報から完全に遮断された見えない檻となって私を包み込んでゆく。
冷え切った指先で、そっと胸元を探る。
衣の奥、肌身離さず身につけているのは、彼に託したものと対になる手製の組紐だ。あの出陣の朝、私が彼の大きな掌に握らせ、彼が心臓に最も近い懐へと深くしまい込んでくれた赤い絹糸の片割れ。
その結び目をぎゅっと握りしめると、ざらついた糸の感触とともに、不思議と彼が側にいてくれるような微かな温もりが伝わってくる気がした。
(老虎……私の、老虎)
暗闇の中で、声にならない名前を何度も反芻する。
どんな凄惨な泥沼の戦野にあっても、彼はきっと私を思ってくれているはず。あの不器用なほどに優しい手で私と同じようにこの組紐を握りしめ、必ず生きて帰ると誓ってくれているのだと。
冷たい褥に身を横たえ、組紐を握った手を胸の前に固く組む。絶望的な恐怖に震えていた心は、彼への絶対的な信頼によって少しずつ凪いでゆく。
私たちは、互いの魂を分かち合った一対の比翼の鳥なのだから。
彼がいない世界など、私には何の意味もない。だからこそ、私の老虎は必ずこの温かい南苑州へと帰ってくる。
「……待っています。いつまでも」
祈るように呟いたその言葉は、夜の静寂へと優しく吸い込まれていった。
私は握りしめた組紐の温もりに縋るようにそっと目を閉じ、彼が必ず生きて私の腕の中へ帰ってくるという、その疑いようのない美しい希望だけを固く信じ切って、深く静かな微睡みの底へと、ゆっくりと意識を融かしていった――
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