第09話
穏やかな春の陽光が、晶陵の街並みを優しく包み込んでいた。
居間の縁側に腰を下ろした私は、衣の奥、肌身離さず身につけている組紐の結び目をそっと指先でなぞる。
指の腹に伝わる、ざらついた絹糸の確かな感触。
(……老虎)
彼が最初の戦地である晋陽から、さらに過酷な北の戦野、渭北へと旅立ったと報せを受けてから、すでに一年という月日が流れている。
届くはずのない便りを待つ時間は、まるで真綿で首を絞められるように息苦しい。
それでも、胸元にあるこの赤い絹糸だけが、遠く離れた彼と私の魂を繋ぐ、唯一の命綱なのだ。
「……小鸞」
ふと、隣に座る寧が、不安げな声で私を呼んだ。
手元の刺繍に向けられていたはずの彼女の視線が、どこか落ち着きなく庭先を彷徨う。
「大丈夫よ、寧」
私は自らの奥底に渦巻く恐怖を必死に押さえ込み、彼女を安心させるように、できる限り穏やかな微笑みを向けた。
「老虎は必ず帰ってくる。私たちが信じて待っていなくて、どうするの」
自分自身に言い聞かせるようなその言葉に、寧は少しだけほっとしたように小さく頷く。
妻として、そしてこの家で彼を待つ者として、私が決して不安な顔を見せるわけにはいかない。
その時だった。
――ダァァンッ!
屋敷の表門が乱暴に開かれる重い音が、春の静寂を無惨に切り裂いた。
庭先へ視線を向けると、そこには、頭から爪先まで泥と土埃に塗れた一人の伝令の姿がある。
息を乱し、膝から崩れ落ちるように倒れ込んだその背中には、軍の緊急事態を知らせる鳥の羽が挿された書状――羽檄が固く結びつけられていた。
ドクン、と。
心臓が、胸を打ち破らんばかりの恐ろしい音を立てて跳ね上がる。
平和な晶陵にはおよそ似つかわしくない、むせ返るような土埃と汗、そして獣脂の生臭い匂いが風に乗って居間へと流れ込んできた。
指先から一瞬にして体温が奪われ、氷のように冷たくなっていくのがわかる。
駆けつけた兄が、血相を変えて伝令から書状を受け取った。
封を切る兄の顔から、さっと血の気が引いていく。
常に冷静沈着なはずの兄の広い肩が、わずかに震えていた。
その震える指先から絞り出されるように、兄の声が響く。
「聞いてくれ……渭北から、報せが届いた」
差し出された羽檄へと、吸い寄せられるように視線を落とす。
そこには、無情な事実だけが、氷のように冷たく黒々とした墨で記されていた。
――『劉将軍、渭北閑湍にて戦死』
その文字を認識した瞬間、私の世界からすべての音が完全に消え失せた。
「……嘘」
声にもならない音が、喉の奥で硬く潰れる。
一瞬にして全身の血が逆流し、体温という体温が足元から抜け落ちていく。
指先が完全に感覚を失い、先ほどまで両手で大切に包み込んでいたはずの茶器が、ふっと重さを失った。
ガシャンッ――。
床に落ちて粉々に砕け散る甲高い音が、ひどく遠い世界での出来事のように響く。
飛び散った陶器の破片と、温かく甘い香りを放っていたはずの花茶が、無惨にも足元の板間を濡らしていく。
まだ湯気を上げるその染みが、板の目に沿ってじわりと広がっていった。
隣で寧が鼓膜を切り裂くような悲鳴を上げて床に崩れ落ちる。
弟が彼女を抱き留め、落ち着かせようとしている声がした。
だが、その凄惨な泣き声すらも、分厚い水底から聞いているように遠く、ひどく曖昧にしか響かない。
私の目はただ、書状に刻まれた冷酷な墨の色だけを捉え続けていた。
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