第10話
嘘。嘘よ。
あんなに強く私を抱きしめてくれた老虎が、私を残して逝くはずがない。
必ず生きて帰ると、あの時、はっきりと約束してくれたのに。
必死に首を振って現実を否定しようとするのに、喉の奥が極端に狭まり、ひゅっ、と短い息を吸い込むことしかできない。
見えない巨大な手に首を絞め上げられているかのような強烈な圧迫感。
悲鳴を上げることも、涙を流すことすら、今の私には許されなかった。
ただ、視界の端がじわじわと暗転し、輪郭が曖昧に溶け落ちていく。
彼が死の淵で何を思い、冷たい泥の中でどう息絶えたのか。
その最期の瞬間に立ち会うことすら、私にはできなかった。
私が託したあの組紐を握りしめ、たった一人で、どれほどの無念を抱えて逝ったというのか――。
息ができない。痛い。苦しい。
私をこの世に繋ぎ止めていた『彼』という世界そのものが、音を立てて完全に崩壊していく。
声なき絶叫を上げながら、私は真っ逆さまに、底なしの絶望の深淵へと沈み込んでいった――。
◆◇◆
どれほどの時間が過ぎたのか、記憶がひどく曖昧だった。
気づけば私は、夕闇が迫る河のほとりへと一人駆け出している。
かつて老虎と並んで立ち、水面を舞う鳥たちを見つめながら、永遠の誓いを交わしたあの大切な場所。
夕暮れの冷たい風が、乱れた髪を容赦なく打ちつける。
ふいに足がもつれ、私は水際の冷たい泥の中へと膝から崩れ落ちた。
身を包む淡い紅梅色の絹衣が、無惨にも泥水に塗れ、重く冷たく肌に張り付いていく。
良い妻として、陰家の娘として保ってきた気丈な仮面など、とうに剥がれ落ちていた。
胸元から引きずり出した赤い組紐を、両手で血が滲むほど強く握りしめる。
ざらついた絹糸が指の肉に深く食い込み、鋭い痛みとなって感覚を麻痺させていく。
だが、今の私にはその痛みだけが、彼と私を繋ぐ唯一の現実に思えた。
「老虎……っ。老虎……っ!」
氷のように塞がっていた喉の奥が引き攣り、慟哭が口から溢れ出した。
夕闇に沈んでいく冷たい水面を見つめながら、泥だらけの両手で地面を掻き毟る。
爪の間に土が食い込み、冷たい泥が指の股まで這い上がってくる。
彼がいない世界に、一体何の意味があるというのか。
必ず生きて帰ると、彼はあの日約束してくれたではないか。
「神様……! どうか、彼を連れて行かないでください……ッ!」
とめどなく溢れる涙で歪む夕空を仰ぎ、私は己の魂を削り取って天へと投げかける。
ずっと共にいると彼に誓った。
彼の片翼となって、どんな苦難も共に分かち合うのだと。
けれど、彼が地獄の底で泥を啜って死ぬくらいなら、私自身の誇りなど一片もいらない。
「彼が生きて戻るなら……私自身の幸せなど、すべて捨てます。彼の隣も、名誉も、何も望みません……!」
泥に額を擦りつけながら、狂気的なまでの切実さで祈りの言葉を紡ぎ続ける。
頬に張り付く冷たい土の粒が、涙と混ざって顎先から滴り落ちていった。
「彼がこの世で息をしてくれているのなら、私はどうなっても構わない。だから、どうか……どうか、彼を生かして……!」
冷たい風が吹き抜ける中、夜の闇は、私の捧げたその誓約を冷たく見下ろしている。
◆◇◆
晶陵の河のほとりは、底知れぬ漆黒に飲み込まれていた。
泣き叫んでいた私の喉はとうに枯れ果て、今はただ、浅くひきつった呼吸だけが静寂の中に漏れる。
冷たい泥に塗れた衣は凍りつき、容赦なく体温を奪っていく。
二の腕をさすっても、泥がこびりついた指先には何の温もりも戻らない。
私は泥だらけの両手を胸の奥に押し当てた。
そこには彼に託したものと対になる赤い組紐がある。
彼がいつか帰還した時、再び二人で繋ぎ合わせるための命綱。
涙はもう、一滴も残っていなかった。
空っぽになった胸の空洞に、ただ一つ、氷のように冷たく透き通った覚悟だけが降り積もっていく。
(もし、彼がこの世のどこかで息をしてくれているのなら……)
どんな運命でも、すべて受け入れよう。
彼が生き延びるためなら――。
彼を縛る業を私が引き受け、あの泥沼の地獄から彼を救えるのなら、どんなことも喜んで手放す。
それこそが、幼い頃からただ彼だけを見つめ、彼の片翼でありたいと願い続けた私の、彼に対する愛の証なのだから――。
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