第11話
あの日、絶望の知らせが私の世界からすべての色彩を奪い去ってから、巡りゆく季節を何度やり過ごしただろうか。
晶陵にある陰家の居間は、重く冷たい静寂に沈んでいた。
卓上から立ち上る花茶の湯気は、かつて彼と共に味わった甘い蜜の香りなどとうに失い、今はただ虚ろに鼻腔をすり抜けていくだけだ。
冷え切った指先で、無意識のうちに胸元の衣を探る。
肌身離さず身につけている赤い組紐のざらついた結び目に触れるたび、あの河のほとりで天に捧げた祈りの記憶が蘇ってくる。
――彼が生きて戻るなら、私の幸せなど、すべて捨てます。
己の魂を削り取って交わした誓約。
彼が死の泥沼に沈んだという事実をどうしても受け入れられず、私はただ、その祈りだけを心の命綱にして、息を潜めるように生き長らえていた。
共に彼を待つ義妹も、かつての朗らかさを失い、今はただ黙々と針を動かしている。
手元の布地に落ちる影が、以前より小さく萎んで見えた。
その重苦しい空気を切り裂くように、表門から慌ただしい足音が響いた。
廊下を駆けてきた兄の背後に、土埃に塗れた一人の伝令が続いている。
あの凶報をもたらした時と同じ、重々しい軍の装束。
また、何か恐ろしい報せなのか。
息を呑み、思わず劉寧と手を握り合った私の前で、伝令が床に膝をつき、深く頭を垂れた。
「申し上げます……! 劉彪将軍、渭北の包囲を突破! 御生存であらせられます!!」
鼓膜を打ったその言葉の意味を、脳がすぐには処理できなかった。
……生きている?
私の、老虎が?
ドクン、と。
しばらく、厚い氷の下で止まっていたはずの心臓が、大きく跳ねた。
瞬間、極限まで冷え切っていた血管の中を、沸騰するような熱い血が一気に駆け巡っていく。
強張っていた指先が震え、視界が急激に歪んだ。
「あぁ……っ、老虎……!」
耐えきれず、私はその場に力なく崩れ落ちた。
枯れ果てたはずの涙が、後から後からとめどなく溢れ出し、冷たい板間を濡らしていく。
隣で劉寧が「お兄ちゃんっ……!」と歓喜の悲鳴を上げ、私の肩に縋り付いて声を上げて泣き崩れた。
兄の陰識でさえ、固く結んだ唇を震わせ、静かに目頭を押さえている。
神様。ああ、神様。
私の、あの身を切るような祈りを聞き届けてくださったのですね。
ただその絶対的な事実だけが、私を絶望の底から究極の歓喜へと引き上げていく。
だが――。
手を取り合って泣き喜ぶ私たちを前にして、伝令はなぜか顔を上げようとしなかった。
伏せられたその視線は、どこか痛ましいものを見るように揺れ、ひどく重い言葉を言い淀んでいる。
「……将軍は御無事なのですが……」
伝令の口から絞り出された微かな躊躇いに、歓喜に沸いていた居間の空気が、ピタリと止まる。
全身を巡っていた熱い血が、一瞬にして、得体の知れない不吉な冷気へと変わっていくのを感じた。
「……将軍は、十万の軍勢を味方につけるため、渭北の盟津にて、真定王の娘御である郭氏を正室としてお迎えになられました。万軍の祝福を受ける、実に盛大な婚礼であったと……」
その瞬間、時が止まった。
先ほどまで居間を満たしていた歓声や嗚咽が、嘘のように完全に消え去る。
耳の奥で、キーンという鋭い耳鳴りだけが響き始めた。
冷たい板間に膝をついたまま、私はただ緩やかに瞬きを繰り返すことしかできなかった。
『盛大な婚礼』
伝令の放ったその言葉が、頭の中で何度も、鈍く反響する。
私たちが交わした杯は、喪中の静けさの中、ただ互いの温もりだけを頼りにしたひどく質素なものだった。
世間から隠れるようにひっそりと結ばれた影のような婚儀。
あの夜、彼は「俺の妻はお前だけだ」と、神聖な祈りのように囁いてくれた。
けれど、彼は北の雪原で、強大な力を持つ煌びやかな花嫁を迎え、光の只中で華々しく結ばれたのだ。
「……どういうこと? お兄ちゃんが、別の女性を娶ったと仰っているの!?」
隣で、劉寧が信じられないものを見るように声を震わせた。
兄の顔にも、明確な怒りと侮蔑の色が浮かんでいるのが視界の端に映る。
彼らの動揺と怒りに満ちた声が、まるで深い水底から聞いているように遠く、ひどく曖昧に響いていた。
裏切られた。捨てられた。
私はもう、彼の『唯一の妻』ではない。
その事実が鋭い刃となって胸を抉るはずなのに、私の心は奇妙なほどに真空状態だった。
彼が生きているという圧倒的な歓喜と、彼が別の女を抱いたという事実が真っ向から激突し、思考そのものが完全に麻痺してしまっているのだ。
相反する感情が処理不全を起こす中、頬に冷たく張り付いた涙の跡だけが、私が先ほどまで確かに歓喜していたことを告げている。
居間に渦巻く家族の怒りと混乱から逃れるように、私はふらつく足取りで、一人夕暮れの庭へと出た。
冷たい風が、涙の跡が張り付いた頬を容赦なく撫でていく。
胸元に隠した赤い組紐を、無意識のうちに引きちぎらんばかりに握りしめていた。
ざらついた絹糸が指の肉に深く食い込み、その鈍い痛みが、麻痺していた私の理性を少しずつ現実へと引き戻していく。
彼が、私ではない別の女を妻として迎え入れた。
華やかな絹の衣を纏い、軍勢の歓呼の中で、見知らぬ花嫁と杯を交わす彼の姿が脳裏に浮かぶ。
私と交わした、あの喪中の静かな誓い。
誰にも見られず、ただ互いの体温だけを信じたあの夜の記憶が、強大な権力と華美な宴の影に塗り潰されていくようで、喪失感で胸をじりじりと焼いた。
彼を責めたい気持ちが、全くないわけではない。
けれど、その凍てつくような静寂の中で、ふと、あの夕暮れの河のほとりで天に投げかけた、己自身の祈りが蘇ってきた。
――彼が生きて戻るなら……私自身の幸せなど、すべて捨てます。彼の隣も、名誉も、何も望みません。
風に揺れる木々のざわめきが、神の静かな返答のように聞こえた。
そうか。神様は、本当に私の祈りを聞き届けてくださったのだ。
彼が、血と泥の地獄から生還するためにどうしても必要だったのが、十万の軍勢であり、新しい妻だった。
私が決して与えることのできない強大な力が、死の淵にいた彼の命を救い上げた。
私が天に差し出した『彼の隣』の居場所が、彼の命という最高の形で成立したのだ。
これは裏切りなどではない。
彼をこの世に引き留めるための、私が望んだ必然の結果なのだ。
そう思えば、指先に食い込む組紐の痛みも、すべては愛しい彼が生きているという奇跡の前に霞んでいく。
夕闇に染まりゆく空を見上げ、私は小さく、けれど深く息を吐き出した。
私の命より大切な老虎。
貴方が生きて、その足で再び大地を踏みしめてくれているのなら、私は喜んでこの孤独と泥を被りましょう。
指先から伝わる痛みを愛おしむように、私はただ静かに、落ちていく夕日を見つめていた。
◆◇◆
すっかり日の落ちた居間へと戻ると、そこには凍てつくような静寂と、張り詰めた怒りの熱が渦巻いていた。
「許せぬ……! 婚姻の誓いを踏みにじり、我が妹を蔑ろにするとは……!」
兄が、声を震わせて卓を叩く。
常に謙虚で沈着な兄が見せるその激しい怒りは、亡き親友との誓いを裏切られた痛切な叫びでもあった。
寧もまた、青ざめた顔でぽろぽろと涙を流し、血の繋がった兄の非道を嘆いてくれている。
激昂する家族たちの中で、私だけがまるで深い水底にいるかのように、奇妙なほど静かな真空の中心に立っていた。
女としての嫉妬を見せれば、それは『七出』の法理に触れ、彼を不義の夫としてさらに世間から追い詰めることになる。
陰家の教えである『三徳』を胸に刻み、彼が生き延びるためならどんな泥でも被ると、天に誓ったのだ。
私はゆっくりと息を吸い込み、冷え切った唇の端を不自然なほど静かに吊り上げた。
「お兄さま、寧。どうか、怒りはお収めください」
私の声は、自分でも驚くほど平坦で、澄み切っていた。
「将軍は、絶望的な包囲を破り、見事に生き延びられたのです。十万の軍勢を得たのも、覇業を成すための立派なご決断。……私たちは、ただ将軍の御無事と、その輝かしい前途を喜びましょう」
「……鸞、お前……」
兄が息を呑み、寧が信じられないというように私を見つめる。
悲鳴を上げる代わりに浮かべた私の微笑みは、あまりにも完璧だったのだろう。
怒り狂っていた家族たちは皆、言葉を失い、かえって得体の知れない恐怖に打たれたように凍りついてしまった。
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