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【完結】比翼の乱世:老虎と鸞鳥の契り  作者: 深山 凛
◆第一章◆

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第12話

背中に突き刺さる無数の視線が、冬の氷雨よりも冷たく肌を粟立たせる。


晶陵(しょうりょう)の街を歩くたび、すれ違う者たちのひそやかな囁き声が、どれほど耳を塞いでも頭蓋の奥で反響し続けていた。


「……あの子、よくもぬけぬけと外を歩けるものね」


「本当にお可哀想なのは陰家のお嬢様よ。あんなに尽くされたのに、遠征先で他の女を娶るなんて、劉家の者は恩知らずにも程があるわ」


「……兄が恩知らずなら、妹も妹よ。いけしゃあしゃあと陰家の飯を食っているのだから」


指先からすっと血の気が引き、足の裏が地面から浮き上がるような錯覚に陥る。

私は浅くなる呼吸を隠すように深く俯き、逃げるようにして陰家の門をくぐった。


次兄が戦死したという誤報に泣き崩れてから、月日が経ったあの日。

彼が生きているという吉報とともにこの南苑州(なんえんしゅう)にもたらされたのは、極寒の渭北(いほく)で彼が郭氏の娘と盛大な結婚式を挙げたという、耳を疑うような事実だった。


一夫一婦制が当たり前の道徳として根付いているこの晶陵において、それは決定的な裏切りを意味する。

兄の罪は、私の罪だ。

かつて私を庇護し、優しく頭を撫でてくれた『お兄ちゃん』は、もういない。今の彼は、私の大切な親友の心を蹂躙した、ただの『裏切り者』でしかなかった。


私はどの面下げて、陰家の皆さんの顔を見ればいいのだろう。

自室に逃げ込み、冷え切った指先をきつく握りしめる。

もう、ここにはいられない。私が陰家に留まれば、小鸞(ルァンちゃん)や陰家の方々にまで、世間の好奇と侮蔑の目が向いてしまう。


膝を突き、わずかな荷物をまとめようと立ち上がった時だった。

障子の向こうから、地を這うような、氷のように冷徹な声が響いた。


「寧(ネイ)。妙な真似はするな」


びくりと肩を震わせると、そこには静かな怒りを纏った陰家当主が立っていた。

華美な装飾を一切排した分厚い武官服。彼が放つ無言の重圧が、私をその場に縫い止める。


「……識兄様。でも、私は……」


「世間の下らぬ陰口など放っておけ」


私の震える声を遮るように放たれた言葉は、岩のように絶対的な重さを持っていた。

彼は鋭い視線を私に向け、きっぱりと言い放つ。


「劉寧(リュウ ネイ)は、我が陰家の妹同然である。彼女を侮辱する者は、この陰識(イン シキ)が許さぬ。……すでに街の者共にはそう通達してある。お前がここを出て行く理由など、何一つない」


その力強い響きに、目の前が不意に熱く滲んだ。

彼は、かつて私の亡き長兄と『命に代えても守る』と誓い合った無二の親友だ。その誓いを、次兄がどれほど残酷な裏切りを働こうとも、彼は一寸たりとも違えようとはしなかった。


「彼……劉彪が選んだ道は、彼の業だ。お前が背負うものではない」


かつて親しみを込めて「彪」と呼んでいた彼の口から出た、「劉彪」という他人行儀で冷徹な響き。

それが、兄と陰家の間に引かれた修復不可能な境界線であることを悟り、私はきつく唇を噛み締めて、ただぽろぽろと涙を零すことしかできなかった。




衣擦れの音を残し、踵を返した識兄様の背中を見送った瞬間。

私の膝から、ふっと力が抜け落ちた。


たまらず冷たい板張りの床にへたり込み、両手で顔を覆う。指の隙間から、熱い涙が止めどなく溢れ出した。


戦乱の世だ。女一人が後ろ盾を失い、屋敷の外へ放り出されれば、待っているのは飢え死にか、尊厳を奪われる地獄しかない。

連帯責任として、妹である私など真っ先にこの門から放逐されて然るべきなのだ。


それなのに彼は、当主としての絶対的な重圧を背負いながら、この私を「陰家の妹」として守り抜くと宣言してくれた。

彼らからの底なしの庇護に打ち震える一方で、胸を鋭く抉るのは、先程の彼の声の温度だった。




しゃくり上げる私の嗚咽だけが響く廊下に、不意に、ぽろん、と柔らかな音が落ちた。


空気を微かに震わせる琴の弦の響き。

顔を上げると、少し離れた場所に、姉弟のように育った歆(キン)が静かに座っていた。

彼は兄たちのように武芸を持たず、剣で力強く外敵をねじ伏せることはできない。けれど、その文弱でたおやかな彼の纏う空気は、ささくれ立った私の心を、不思議なほど穏やかに解きほぐしていく。


「……歆」


掠れた声で呼ぶと、彼は静かに弦から指を離し、困ったような、けれどひどく優しい瞳で私を見た。

 

「風が冷たいよ。寧姉(ネイお姉)様」


彼は衣の裾を揺らしながら歩み寄り、私のすぐ隣に腰を下ろした。

そして、何も聞かず、何も責めず、ただ黙ってそこに寄り添ってくれる。

沈黙が痛くない。それは、彼が私と同じ目線で傷つき、同じように悲しみを抱えながらも、私を「罪人の妹」として突き放さないからだ。


「……ごめんなさい、歆。私……っ」


「謝らないで。寧姉様は何も悪くないんだから」


歆は伏し目がちにそう言うと、迷うように細い指先を自らの膝元へと滑らせた。


「寧姉様の……その、兄上は……」


言い淀むその声に、私は息を呑み、奥歯を噛み締めた。

幼い頃、あんなにも「彪哥(彪兄ちゃん)、彪哥(彪兄ちゃん)」と慕って、兄の背中を無邪気に追いかけていた歆が。今、次兄の名前を直接口にすることすら躊躇っている。

私や、彼の実の姉である小鸞を傷つけまいとする、痛ましいほどの配慮だった。




私の肺を塞ぐのは、圧倒的な安堵と、それに比例して重くのしかかる鉛のような罪悪感。

彼らが優しくすればするほど、兄の犯した罪の重さが浮き彫りになる。けれど、この絶対的な庇護と、隣で静かに息をする弟のような彼の温もりがなければ、私はとうに心の形を保てずに壊れていた。


私は冷え切った指先をきつく組み合わせ、微かに香る墨と木の匂いの中で、ただ声殺して泣き続けた。




◆◇◆




ひとしきり涙を流し、歆の静かな温もりに少しだけ呼吸が落ち着きを取り戻した頃。

夕闇が静かに晶陵の街を包み込み始めた刻限に、私は呼ばれるまま、当主の母であり、この家の女主である貞お母様(鄧貞(トウ テイ)様)の私室を訪れていた。


部屋に足を踏み入れると、咽せ返るような花茶の甘い香りが、しっとりとした夜気とともに肺の奥まで満ちてくる。

ほのかに揺れる灯りの下、上質な絹の衣を纏い、静かに私を待ち受けていた。


「……貞お母様」


私は床に視線を落としたまま、その場に立ち尽くした。

一夫一婦の誇りを誰よりも重んじ、娘である小鸞の幸せを心から願っていた彼女が、今の事態にどれほど腸を煮え繰り返らせているか。想像するだけで喉が張り付く。本来ならば、裏切り者の血を引く私など、視界に入れることすら忌まわしいはずなのだ。


私が敷居を跨ぐことすらできずに震えていると、衣擦れの音が微かに響いた。

鄧貞様が静かに立ち上がり、私の目の前まで歩み寄ってくる。


「……こんなに冷え切って。可哀想に」


咎めるような響きは、微塵もなかった。

彼女の白く柔らかな指先が伸びてきて、私の頬に伝う涙をそっと掬い取る。触れた指先から伝わる温もりに、私の肩がびくりと跳ねた。


「貞お母様、申し訳ありません……っ。次兄が、あのような恩知らずな……」


絞り出すように紡いだ謝罪の言葉を、鄧貞様は私の両手を優しく包み込むことで遮った。

彼女の衣から立ち上る花茶の香りが、私をすっぽりと包み込む。


「寧。貴女が謝ることは、何一つありませんよ」


静かで、けれど気高い威厳に満ちた声だった。


「彼の方が為した背信は、彼の方自身の業です。貴女が罪の意識に苛まれる理由など、どこにもないのです」


かつて、私の兄を『婿殿』と呼び、期待を寄せてくれていた彼女の口から出た他人行儀な響き。

名前すら呼ぶ価値のない他人に成り果てた兄。その事実が突きつける修復不能な断絶に、私の心臓がぎゅっと収縮した。




けれど、鄧貞様は私を突き放すことはなかった。

彼女は包み込んだ私の手を引き寄せ、まるで幼子をあやすように、私をその胸の中に深く抱きしめた。


「貴女は、私が実の娘と同じように、一つ屋根の下で慈しみ育てた子です。世間が何と言おうと、寧は私たちの娘なのですよ」


背中を撫でる掌の優しい重み。滑らかな絹の肌触りと、圧倒的なまでの母の体温。

一番傷つき、血を流しているはずの彼女が、一切の恨み言を封じ込め、ただ私という存在を無条件で肯定し、愛を与えてくれている。


「……ああ……っ、貞お母様…………っ」


張り詰めていた緊張の糸が、音を立てて千切れた。

私は彼女の胸に縋り付き、声を上げて泣き崩れた。

女一人では生きられないこの過酷な時代に、自分を放り出さず、泥を被ってでも守り抜いてくれる絶対的な庇護。それは、単なる情けではない。命を預けられる『真の家族』としての、血よりも濃い絆の証明だった。


私は彼女の温かい腕の中で、溶けていく胃の腑の鉛とともに、この上ない魂の救済を感じていた。




◆◇◆




その深い慈愛に胸を満たし、貞お母様の私室を辞して渡り廊下へと出ると、すっかり日は落ち、夜の帳が下り始めていた。


濡れた睫毛を撫でる夜風はひどく冷たくて、火照った頬の熱をゆっくりと奪っていく。

けれど胸の奥には、まだあの圧倒的な抱擁の温もりが確かに残っていた。


かつて、力強くて優しかった『お兄ちゃん』。

私が無邪気に慕い、この世の誰よりも誇りに思っていたその人は、もうどこにもいない。

今の彼は、この気高き家族の尊厳を泥で汚した、ただの『兄』という名の罪人だ。


彼が遠い北の地でどんな現実を選ぼうとも、私は――私だけは、業を共に背負い、命に代えてもこの家族を守り抜かなければならない。たとえ世間から恩知らずの妹と石を投げられようと、この温かい箱庭への忠誠だけは決して捨てないと、冷えゆく空に向かって強く誓った。




ふと、視線を巡らせた先。

闇が濃くなり始めた人気のない庭先に、一つの見慣れた影があった。


縁側で縫い物をしていたのだろう。それをそっと傍らに置き、夜風に衣を揺らされながら、所在なげに冷たい土の庭へと降り立つ華奢な背中。


――小鸞(ルァンちゃん)。


誰よりも気高く、誰よりも深く、声なき血を流し続けている私の大切な親友。

一人佇むあの細い背中が背負わされている絶望の深さを想うと、誓ったばかりの決意すら霞むほど、再び激しい痛みが胸を貫いた。

指先から血の気が引き、顔が青ざめていくのが自分でもわかる。瞬きをすれば今にも零れ落ちそうなほど、熱い涙が再び両の瞳に一杯に溜まり、視界を歪ませた。


私が、彼女を支えなければ。

謝罪の言葉など彼女は望まないかもしれない。それでも謝らなければならない――。


私は冷たい夜風が満ちる庭へと足を踏み出し、微かに震える唇を開いた。

そして、零れる涙ごと絞り出すように、ただ一人の親友の名を呼んだ。

最後まで読んでいただきありがとうございます!


*ちょこっと雑談*

国を真ん中で横切る渭水という大きな河の南側に位置するここ南苑州・晶陵。

温暖な気候で比較的平和なこの土地では社会通念的に一夫多妻が認められていますが、文化的には忌避されています。

陰家のような豪族であっても一夫一婦制が当たり前の晶陵では寧の立場が台無しです。

そんな文化圏晶陵ですが、普段は優しい人たちがたくさんいる良い場所なんですよ。。。という裏話。


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また明日19:00にお会いしましょう!

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