第13話
晶陵の市井には、北の地からの風が残酷な囁きを運んできていた。
――劉将軍が、渭北にて十万の軍勢を率いる真定王の娘を、新たな正室として盛大に迎え入れた。
その報せは瞬く間に陰家の高い壁を越え、屋敷の隅々にまで染み渡っていた。
居間の縁側に座り、滑らかな絹布に細い針を刺し入れる。
廊下を行き交う使用人たちが、私を見るなり弾かれたように目を逸らし、ひそそかに足早に立ち去っていく。
好奇と、同情。
遠く離れた夫をただひたすらに待ち続けていた女が、権力と美しさを持つ別の女にいとも容易くその座を奪われたのだと、誰もが哀れんでいるのが肌に突き刺さる。
ふと指先に力みが生じ、チクリと鋭い痛みが走った。
絹布の上に、小さな赤い血の玉が滲む。
私は小さく息を吸い込み、表情一つ変えずにその指先を衣の袖口へと隠し、背筋を痛いほど真っ直ぐに伸ばした。
私の両親――今は亡き父と、母が築き上げた家庭は、生涯ただ一人の妻を愛し抜くという、『比翼の鳥』の理想そのものだった。
『女の幸せとは、夫に尊ばれ、唯一の正室として家を守ること。それ以外の道は、どんなに愛があろうとも恥なのです』
幼い頃から母の背中を見て育ち、骨の髄まで染み込んだ矜持が、容赦なく私の胸の奥を抉ってくる。
彼の命を死の淵から救うための、必然の代償だった。
頭では理解している。
けれど、彼が別の女と華やかな杯を交わし、その腕に別の女を抱いているという生々しい事実が、鋭い氷の刃となって私の内側をズタズタに切り裂いていた。
彼との間にあったあの静かで純粋な日々が泥で汚されていくような息苦しさに、喉の奥がヒュッと引き攣る。
それでも、私は決して涙を見せてはならない。
ここで私が女としての醜い嫉妬を見せれば、それは『七出』の罪に該当する。
命懸けで戦っている彼を「恩知らずな夫」として世間から糾弾させるわけにはいかないのだ。
◆◇◆
木々の影が長く伸び、冷たい夕風が庭先の空気を冷やし始めていた。
縫い物をそっと置き、人気のない庭へ降りた私の背中に、微かに震える声が投げかけられた。
「……小鸞」
振り返ると、そこに立っていたのは義妹の劉寧だった。
普段は明るく強気な彼女の顔はひどく青ざめ、大きな瞳には今にも零れ落ちそうな涙が一杯に溜まっている。
重婚の噂が広まってからというもの、彼女は「恩知らずな家の妹」として、心ない視線の標的となっていた。
私が実家であるこの陰家に身を寄せている間、彼女もまた、陰家の庇護のもとで共に暮らしてきたからだ。
「寧……」
私が歩み寄るより早く、彼女は顔を覆い、冷たい土の上へ膝から崩れ落ちた。
「ごめんなさい……! 兄があのような……貴女を裏切るような真似をして……っ。私、小鸞に、陰家の皆さんに、合わせる顔がないわ……っ」
兄の業を一身に背負い、身を震わせる彼女を見て、私の胸の奥が鋭く痛んだ。
両親が体現した理想を知っているからこそ、夫が別の女と並び立つ現実によって、今、私の心は千切れそうなほど血を流している。
けれど、目の前でむせび泣く彼女は、私にとってただの義妹ではない。
幼い頃から共に育ち、傷を癒やし合った、かけがえのない親友なのだ。
私は静かに歩み寄り、泥に塗れることも厭わずしゃがみ込むと、身を縮める劉寧の体を強く抱きしめた。
「小鸞……」
「泣かないで、寧。貴女が謝ることなど、何一つないのよ」
私の肩に顔を埋める彼女の、火傷しそうなほど熱い涙が、冷え切っていた私の衣を通して肌にじわりと染み込んでくる。
「将軍のご決断と、貴女への想いは全くの別物。……ねえ、寧。状況が変わっても、私たちはこれからも、今まで通りの家族でいられるかしら?」
私が微笑んで問いかけると、劉寧は弾かれたように顔を上げ、何度も何度も強く頷いた。
「うん……っ! 兄がどうあろうと、私にとっての義姉は、今も昔も貴女だけよ……!」
彼女を宥め、その背中をゆっくりと撫でながら、私は冷たい夕暮れの空を見上げた。
彼がどんな現実を選ぼうとも、この優しく気高い家族たちだけは守り抜かなければならない。
けれど、その決意は同時に、ある残酷な事実を私に突きつけていた。
私がこのまま『妻』という座にしがみついていれば、愛する寧や兄たちを、世間の好奇の目と陰惨な嫉妬の渦に巻き込み続けることになるのだと。
◆◇◆
夜の帳が降りた陰家の屋敷は、重く冷たい静寂に包まれていた。
当主である兄の部屋に呼ばれた私は、卓上で揺れる灯明の炎をただ静かに見つめていた。
「鸞……無理に強がることはない。お前は私の前でくらい、泣いてもよいのだぞ」
常に冷静沈着で、滅多に感情を表に出すことのない兄が、絞り出すような声で気遣ってくれる。
その深く温かな言葉が、かえって私の胸の奥に封じ込めていた傷口を容赦なく抉り広げていく。
両親が残した、生涯ただ一人を愛し抜くという穢れなき原風景。
その誇り高き美しさを知っている兄だからこそ、私がどれほどの絶望に打ちひしがれているか、痛いほど理解しているのだ。
(ああ……泣いてしまえたら、どんなに楽だろう)
けれど、ここで私が一筋でも涙を零せば、この優しい兄は妹の尊厳を守るために、自らの命を投げ打ってでも彼を責めるだろう。
それは、彼らの覇業に癒えない亀裂を生むことになる。
私は衣の袖の下で、爪が手のひらに食い込むほど、指の関節が白くなるまで強く拳を握りしめた。
そして、心配そうに私を見つめる兄の目をまっすぐに見返し、涙を堪えきった瞳で、ゆっくりと唇の端を吊り上げた。
微かに引き攣る頬の筋肉を、必死に押さえ込みながら。
「お心遣い、感謝いたします、お兄さま。……けれど、嫉妬は妻の罪です」
自分のものとは思えないほど、平坦で冷たい声が出た。
「将軍は、絶望的な窮地から十万の軍勢を得て、見事に生き延びられました。私は、乱世を鎮めるための、将軍のその冷徹なご決断を……誇りに思っております」
「……鸞」
兄は痛ましげに眉根を寄せ、言葉を詰まらせた。
それでも私を否定することはせず、ただ深く、力強く頷いてみせた。
どんな嵐が吹き荒れようと、この陰家という盾で私を全身全霊で守り抜くという絶対的な肯定が、その不器用な沈黙から伝わってくる。
兄の、その深すぎる愛情が痛かった。
家族が私を気遣ってくれるほど、私は家の教えに背く重婚という現実を直視できなくなっていく。
私が妻として微笑むほどに、私の魂は少しずつ削り取られ、息苦しい暗闇へと足を踏み入れていくのを感じていた。
◆◇◆
深い夜の闇が、晶陵の屋敷をひっそりと包み込んでいる。
自室に戻り、一人きりになった冷たい臥牀に腰を下ろす。
兄の不器用な優しさと、劉寧の痛いほど熱い涙の記憶が、まだ肌にじわりと残っていた。
亡き両親が体現した、生涯ただ一人を愛し抜くという理想。
その純潔な精神こそが、私という人間の核だった。
もし私がこのまま二人の妻の狭間で彼の傍に留まれば、いずれ嫉妬という醜い泥に心を蝕まれ、愛するこの家族をも陰惨な愛憎の渦に巻き込んでしまうだろう。
彼が覇業を成し、乱世を鎮めるために、どうしても渭北の軍勢と新しい妻が必要だったのなら、私がその足枷になってはならない。
誰も悪者にしないために、私がこの舞台から静かに降りる。
それこそが、彼を愛している私の最後の矜持なのだから。
私は文机に向かい、震える手で硯に数滴の水を落とした。
静寂に支配された部屋の中で、墨を擦る微かな音だけが響く。
冷たく澄んだ墨の匂いが立ち昇り、私の孤独な決意を冷徹に包み込んでいく。
胸元に秘めた、彼と私を繋ぐ唯一の証である赤い組紐。
そのざらついた感触を指先で確かめながら、私は冷たい筆を執った――。




