第14話
深夜の晶陵。
陰家の屋敷はとうに深い眠りにつき、私の自室には、張り詰めたような冷たい夜気だけが満ちていた。
文机の上に置かれた青磁の硯に向かい、私はただ無心に墨を擦り続けていた。
――シャリ、シャリ、と。
一定の刻みで鳴る静かな音が、今の私をこの世に繋ぎ止める唯一の鼓動のように思える。
明日、南苑州への伝令の任を終えた耿敦が、彼が待つ渭北の陣へと戻っていく。その前に、どうしても彼に宛てた手紙を書き上げなければならなかった。
すうっと冷たい墨の匂いが立ち昇り、私の静かな決意を静かに包み込んでいく。
私が最後に彼へ文を送ったのは、もうずいぶんと前のことになる。
あの頃は、彼が泥沼の戦野で何が起きるかわからないという恐怖に苛まれ、ただ生きて帰ってきてほしいと祈ることしかできなかった。
けれど今、彼は生きている。
その事実だけが、重婚という刃でズタズタに切り裂かれた魂を、辛うじて繋ぎ止めている唯一の救済だった。
墨を擦る手を止め、真っ白な絹布を見つめる。
彼が生き延びるためなら、私が泥を被ろう。両親が教えてくれた一夫一婦の理想を汚さぬよう、私が自ら身を引き、彼を不義の罪から解放しよう。
それが、神に捧げた祈りの代償なのだから。
筆を手に取り、たっぷりとした墨を含ませる。
筆先から、ぽたりと黒く冷たい墨の滴りが、真っ白な絹布の上に落ちて滲んだ。
それはまるで、私が流すことを禁じた、漆黒の涙のようだった。
墨をたっぷりと含ませた筆先が、机に広げた滑らかな絹布の上でピタリと止まる。
かつて彼へと手紙を送る時、私はいつも何のためらいもなく『吾愛 老虎』と書き出していた。
けれど今、そのたった四文字が、どうしても書けない。
震える筆先から黒い滴りが落ちそうになり、私は慌てて筆を硯へと戻した。
今の彼には、極寒の渭北に新たな帰る場所がある。
十万の軍勢という強大な力をもたらし、万軍の祝福の中で杯を交わした新しい正室。すでに彼の子をその胎に宿しているかもしれない。
もし私がここで、今まで通りの妻としての情愛を押し付け、彼の心を縛ろうとすれば、どうなるだろうか。
妻の嫉妬は『七出』の罪だ。私が正妻として振る舞い、彼の決断を非難すれば、それは彼を法に背く不義の男にし、乱世を救う英雄の歩みに消えない泥を塗ることになってしまう。
冷たい夜気が、広げられた白地の絹布を撫でるように通り過ぎていく。
かつて二人を甘く満たしていた花茶の香りは、ここにはもうない。ただ、未練を切り裂くように冷たく、澄み切った墨の匂いだけが私を孤独に包み込んでいた。
そっと目を閉じ、あの夕暮れの河のほとり、冷たい泥の中で天に捧げた祈りを静かに反芻する。
私の命より大切な人を、死の淵から返してくださって、本当にありがとうございます。彼がこの世で息をしてくれているだけで、私は十分です。……約束通り、私のささやかな幸せは、すべてお返しいたします。
熱いものが込み上げそうになるのを必死に堪え、『老虎』という愛しい呼び名を、喉の奥へと無理やり飲み込む。
まるで飲み込んだその二文字が鋭い氷の刃に変わったかのように、喉の奥が焼けるように痛み、息が詰まった。
痛い。苦しい。
けれど、この痛みこそが、彼を生かした代償なのだ。
彼を誰よりも深く愛しているからこそ、自らの手で『妻』という温かな殻を脱ぎ捨てなければならない。私だけの愛しい夫を、いずれ天下を統べる人へと、私自身の心の中で完全に切り離すのだ。
ゆっくりと息を吐き出し、私は再び冷たい筆を執った。
震えそうになる指先に痛いほど力を込め、真っ白な絹布へと墨を落とす。
――『劉彪様』
書き記されたその三文字は、まるで赤の他人に宛てたかのように、よそよそしかった。
かつて彼を甘く呼び、心を溶かし合ったあの温かな響きは、もうこの絹布の上には存在しない。
私は、彼の無事な生還と、十万の軍勢を得た華々しい覇業を祝ぎ、そしてこれからは将軍としての責務を全うされますようにと言葉だけを淡々と連ねていった。
文を書き終え、筆を置く。
視線は、文机の傍らに置かれた、あの手製の組紐へと吸い寄せられた。
彼と離れ離れになってから、手紙を送る際には必ず同封してきた愛の証。
『どんなに離れていても、私の魂は常に貴方の傍にあります』という、私の心そのものだった絹糸。
震える指を伸ばし、その結び目にそっと触れる。
少し粗く、けれど確かな温もりを持ったその手触りが、かつて彼と肩を寄せ合った春の陽光のような記憶を呼び覚まし、胸の奥を激しく締め付けた。
これを手紙に添えれば、彼はどれほど喜んでくれるだろうか。
……けれど、それは駄目なのだ。
私がこの組紐を送れば、それは彼を過去の約束に縛り付け、新しい妻のいる現在の彼を苦しめる鎖となってしまう。彼がこれからの乱世を真っ直ぐに見据え、頂点へと昇り詰めていくためには、私という過去の重荷は捨て去らなければならないのだ。
「……さようなら。私の、老虎」
声に出さず、ただ口の形だけでそう呟く。
飲み込んだその名前は、喉の奥を鋭く切り裂き、血の味がするほどの痛みを伴って胸の底へと落ちていった。
私は組紐をそっと持ち上げ、最後に一度だけ頬に寄せ、そのかすかな温もりを魂に刻み込む。
そして、傍らにあった木造りの小箱へとそれを収め、静かに蓋を閉ざした。
パタン、と。
小さく乾いた音が部屋に響いた瞬間、私の視界の輪郭が曖昧に溶け落ちていく。
彼と私の魂を結んでいた赤い命綱は、こうして私自身の手によって断ち切られたのだ。
組紐を同封せず、言葉だけを書き連ねたこの絹布を丁寧に折りたたみながら、私は、私の心臓の半分が永遠に死に絶えたことを、静かに悟っていた。
◆◇◆
翌朝。晶陵の城門を吹き抜ける風は、冬の気配を帯びて鋭く冷たかった。
白く濁る吐息の向こうで、劉彪の側近である耿敦が、北へ帰るための黒馬の手綱を引いている。
私は、昨夜封をしたばかりの薄い絹布を、彼に向けて静かに差し出した。
「耿敦様。どうかこれを……将軍に」
分厚い革の手袋に包まれた無骨な掌が、私の差し出した絹布を恭しく受け取る。
「確かにお預かりいたしました。劉彪様も、どれほどあなた様からのこの文を待ちわびておられたことか。必ずや、劉彪様の元へお届けいたします」
力強く請け負う耿敦の顔には、主君を案じる真っ直ぐな忠誠心だけが浮かんでいた。
中身を知らない彼のその無垢な誠実さが、今の私には刃のように痛い。
それでも私は、一切の感情を封じ込め、凍りつくような冷たい風の中で静かに微笑んでみせた。
「……ええ。よろしくお願いいたします」
私の微笑みに安堵したように、耿敦は深く一礼し、黒馬へと跨った。
いななきと共に、馬が北へ向かって駆け出していく。
容赦なく遠ざかっていく馬の蹄の音が、冷たい石畳を打ち据え、私の胸の奥に空いた巨大な穴の中へと虚しく響き渡る。
視線の先には、彼がいる極寒の渭北へと続く、どこまでも高く冷たい冬の空が広がっていた。
(さようなら。私の、老虎……)
声にならない永遠の別れが、白く濁った吐息と共に空へと溶けていった。
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