第15話
彼への愛を封印したあの手紙を極寒の渭北へと送り出してから、ゆうに一年以上の歳月が流れていた。
その間に、渭北州の煌にて、劉彪様が『昭虎帝』として即位されたという報せが、風の噂となってこの南苑州にも届いていた。
幼い頃から共に過ごした小虎は、天を統べる黄金の龍へと昇り詰めたのだ。
雲の上の、果てしない身分となってしまったあの方を想うたび、冷たい隙間風が胸の奥を吹き抜けていく。
晶陵の陰家には、穏やかな昼下がりの光が差し込んでいるはずだった。
だが、居間の空気はまるで目に見えない鉛のように重く淀み、私の呼吸を容赦なく圧迫していた。
足元の板間から這い上がってくる冷気が、血の気を失った足先から急速に体温を奪っていく。
私の視線は、卓の上に無造作に置かれた一通の木簡に、太い釘で打ち付けられたように固定されていた。
――『郭氏、男児を出産。昭虎帝の第一子たる長男なり』
伝令が置いていったその冷酷な墨文字が、鋭く研ぎ澄まされた氷の刃となって、私の網膜を深く、無惨に抉り出していた。
十万の軍勢を得るための政略結婚。
彼の苦渋の決断。
そう自分に言い聞かせ、祈りの代償だと己の魂を縛り付けてきた。
身体は別の女の隣にあろうと、彼の魂の帰る場所は私だけなのだと、心のどこかで微かな、本当に微かな望みに縋っていたのかもしれない。
けれど、「長男誕生」という事実は、そんな私の哀しい強がりを根底から粉々に打ち砕く、圧倒的で絶対的な現実だった。
血を分けた子供という存在。
それは、どのような政治的な契約よりも重く、彼と郭氏という女性を「真の家族」として永遠に結びつける、逃れられない運命の鎖だ。
ふと、私の脳裏に、かつて両親が体現していた家庭の原風景がよぎる。
生涯ただ一人の妻を愛し抜き、互いの影を踏むことなく、静かに寄り添い合う。
母が誇り高く守り抜いた『比翼の鳥』の姿。
私が彼と築きたかったのは、天下の覇権でも華美な絹衣でもなく、ただその温かな光に満ちた、ささやかな夫婦の愛だけだったのだ。
ああ、神様。
かつて河のほとりで彼と共に見た夢は、永遠に失われてしまったのですね。
彼の腕の温もりも、私を呼ぶ低く甘い声も、骨の髄まで愛している。
けれど、別の女性との間に後継者という確固たる未来を築き上げた彼の隣に、私の居場所はもうどこにもない。
私が妻という幻想にしがみつけば、それは尊い両親の教えを汚し、彼をただの不義の男に貶めるだけだ。
愛しているからこそ、もう永遠に一緒にはいられない。
その果てしない虚無感と、未来の完全な喪失による絶望が、冷たい泥のように私の肺を満たしていく。
私は音もなくその場にへたり込み、ただじっと、残酷な現実を告げる木簡を見つめ続けるしかなかった。
◆◇◆
どれほどの時間が経ったのか、それすらも分からない。
膝をついたまま微動だにしない私を案じて、夕暮れの薄闇が忍び寄る自室へ、寧が静かに足を踏み入れてきた。
彼女の目にも、私と同じ絶望の光が宿っている。
血の繋がった実の兄が、遠い北の地で別の女性との間に嫡男を設けたという事実は、陰家に守られてきた彼女にとっても、あまりに重く、残酷な業であったのだろう。
「小鸞……」
劉寧は私の姿を見るなり、堪えきれずにその場に泣き崩れ、私の膝にすがりついた。
ぽろぽろと零れ落ちる彼女の涙は、驚くほど熱く、私の冷え切った衣の先を濡らしていく。
「申し訳、ございません……! 兄があのような……。陰家の皆様に、どれほど尽くしていただいたか分からないのに。晶陵の地を忘れたかのように、異郷で子をなすなど……っ。私、小鸞に何とお詫びをすればよいか……」
実兄の不義理を恥じ、身を震わせて泣く彼女の温かな背中に、私はそっと手を添えた。
これまで、陰家の家訓である『三徳』の教えを守り、女としての醜い嫉妬や醜態はすべて心の奥底に押し込めてきた。
私が微笑んでいれば、誰も傷つかない。彼を暴君にすることもない。
そうやって己の理性を、必死に守り抜いてきたのだ。
けれど、誰よりも私の傷を理解して涙を流してくれる親友の温もりに触れた瞬間。
パツン、と。
私の中で張り詰めていた最後の防衛線が、あまりにもあっけなく切れて落ちた。
「……寧」
喉の奥から、掠れた声が漏れる。
次の瞬間、私は声を上げ、身をよじるようにして、彼女の細い肩を抱きしめて泣き崩れていた。
ああ、私は寂しかった。
本当は、狂ってしまいそうなほど、あの方が恋しかった。
私の老虎。私の、たった一人の夫。
あの方はもう、二度と私の元へは帰ってこない。
別の女の胎に自らの血を宿したあの方は、もう完全に、私だけの老虎ではなくなってしまったのだ。
かつて晶陵の河のほとりで夢見た、比翼の鳥の約束。
あの優しく穏やかな花茶の香る日々は、もう二度と、この人生には戻ってこない。
「う、あ……ぁ、ああ……っ!」
息を詰まらせ、声を押し殺しながらも、胸の奥から次々と湧き上がる慟哭が、激しい嗚咽となって部屋の静寂を震わせる。
劉寧は私の悲痛な姿に、さらに激しく涙を流し、ただひたすらに私の体を強く、強く抱きしめ返してくれた。
すべてが、散ってしまった。
夕闇が部屋を完全に支配し、灯りのない自室は、血を吐くような涙と、それを宥める親友の温かな嗚咽だけが、いつまでも響き続ける暗い檻のようになっていた。
最後まで読んでいただきありがとうございます!
少しでも「面白い!」「続きが気になる!」と思っていただけましたら、ページ一番下にある【☆☆☆☆☆】をタップして【★★★★★】で応援していただけると、執筆の最大の励みになります……!
(※評価は後からでも変更・取り消しが可能です!)
また、【ブックマーク】に追加していただけますと、更新後すぐに続きをお読みいただけます。
また明日19:00にお会いしましょう!




