第16話
夜の冷気が、屋敷の廊下を音もなく這うように流れている。
当主の部屋へ戻ろうとしていた私の足は、妹の部屋の前で、見えない楔を打ち込まれたように止まった。
固く閉ざされた扉の向こうから、押し殺したような、血を吐くような嗚咽が漏れ聞こえてくる。
共に泣きじゃくる寧の声も混じっていた。
鸞……。
我が妹は、両親から受け継いだ『三徳』の教えを誰よりも深く体現し、これまでどんな試練にあっても、決して涙を見せることはなかった。
あの気高く静かな妹が、泣き崩れているのだ。
その悲痛な響きが、私の胸を鋭利な刃でえぐり、暗い怒りの炎に油を注いでいく。
脳裏に、かつて凶刃に斃れた無二の親友、昂の快活な笑顔がよぎった。
『俺が死んだら、彪と寧を頼む』
その言葉を遺言の血の誓いとし、私は今日まで、残された彪と寧を、実の弟妹のように庇護してきたつもりだった。
彪が天下の覇権を握るために渭北の泥を啜っている時も、彼を信じ、我が陰家の誇りである鸞を託した。
だが、その結果がこれだ。
あいつは北の雪原で別の女を娶り、あまつさえ、その女に子を産ませた。
覇業のため、十万の軍勢を得るためだという理屈は分かる。
乱世の将としての必要な決断であったことも理解している。
ギリリ、と。
奥歯が嫌な音を立てて軋んだ。
回廊の太い柱に押し当てた拳に力がこもり、皮膚の下に白く骨の輪郭が浮かび上がる。
親友との約束? 天下の覇者への義理?
そのようなものは、我が妹が流すこの血の涙の前では、塵芥ほどの価値もない。
彪がどれほど強大な軍勢を率いようと、どれほど気高い皇帝になろうとも関係ない。
これ以上、鸞の心を踏みにじる権利は、天の神にすらありはしないのだ。
私の中で、劉彪を『守るべき弟』として繋ぎ止めていた情の糸が、プツリと音を立てて完全に断ち切られた。
(我が陰家の娘を、決して他人の後ろに跪く妾にはさせぬ)
ゆっくりと顔を上げた私の目には、もう親友の面影を追う甘さは欠片も残っていなかった。
あるのはただ、妹の尊厳を蹂躙した者に対する、陰家当主としての冷徹で激しい別離の意思だけだ。
これより先、彼とは一切の情を捨てる。
私は踵を返し、己の部屋へと冷たい歩みを進めた。
夜の闇よりも深く、研ぎ澄まされた冷たい墨を擦らねばならない。
あの男に、家と家との関係を永遠に断ち切る、決定的な絶縁の文を叩きつけるために。
◆◇◆
翌朝、晶陵の陰家の門前には、凍てつくような冬の冷気が立ち込めていた。
白く濁る吐息の中、私は自ら研ぎ澄ませた冷たい墨で書き上げた木簡を、南苑州へ戻っていた外交官であり、劉彪の側近でもある耿翼へと差し出した。
それは、陰家当主としての私の名において記した、天下の覇者に対する公的な絶縁状であった。
「翼。これを、彼に」
私の静かで冷徹な声に、それを受け取る耿翼の手が微かに震えた。
彼もまた、事の重大さを痛いほどに理解しているのだろう。
そこに記されているのは、単なる離縁の願いではないからだ。
「寧のことは案ずるな。亡き昂との誓い通り、彼女は引き続き我が陰家が命に代えてもこの地で庇護し続ける。だが――」
私は、遠い北の空を見据え、氷のように冷たい声で告げた。
「翼、我が家はあの男とはこれにて縁を切る。陰家の娘は、誇り高き正妻である。二人目の妻や、ましてや他人の後ろに跪く妾のような扱いを受けるわけにはいかぬ。二度と、我が妹に関わるなと伝えよ」
「……承知、いたしました」
耿翼は深く首を垂れ、その重い木簡を懐へと収めると、弾かれたように馬へと跨った。
鋭い鞭の音と共に、黒馬が北の空へ向かって駆け出していく。
蹴り立てられた土煙が冬の冷気に舞い上がり、石畳を打ち据える不吉な銅鑼のような蹄の音が、晶陵の空に重く反響し始めた。
私は、遠ざかっていくその背中を、微動だにせず見据えていた。
この一撃が、どのような事態を引き起こすか。
当主である私に、分からぬはずがない。
天下取りのために自らの感情を極限まで抑圧し、泥を啜って覇権を握ったあの男の理性を、この絶縁状が完全に焼き切ってしまうだろうことは。
だが、それでも構わない。
親友に託された弟妹のうち、妹の劉寧は守り抜く。
だが、我が妹の尊厳を蹂躙した覇者・劉彪とは袂を分かつ。
それが、陰家当主としての私の誇りであり、覚悟である――
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