第71話
白み始めた朝の光が、洛華の宮殿を青白く染め上げている。
玉座から見下ろす百官の列の最前列には、渭北派の首魁である郭昌と若き宰相の郭況が並び立っていた。
歩くたびにぶつかり合う分厚い黄金の装飾音が、朝の冷気を不快に揺らす。
郭昌の顔には隠しきれない余裕の笑みが張り付き、その隣の郭況もまた、白磁のように滑らかな肌に微かな翳りすら落とさず完璧な宰相の仮面を被っている。
実行犯である謝延が口封じに消され、我々にまで火の粉は及ばない。
己の軍事力と権威を盲信し、そう高を括りふんぞり返っている姿が手に取るようにわかった。
俺は冷え切った玉座の肘掛けに腕を置き、氷のように冷徹な視座からその滑稽な顔を見下ろす。
「……翼」
低く名を呼ぶと、列の中から近侍の耿翼が進み出る。
無言のまま背後に控える兵士たちへ顎で合図を送ると、ドサッ、ガァァンッ、と重く乾いた音を立てて朝議の石床に次々と木簡の束が投げ出されていった。
それは尋常ではない量である。
「陛下。……御史中丞・謝延の処刑後、残された証言と記録を元に徹底した内偵を進めておりました。ここに積み上げられたものは、すべて『金穴』と呼ばれる郭一族の裏の帳簿、および市井のゴロツキへ暴動を指示した資金提供の記録にございます」
耿翼の平坦な声が響き渡った瞬間、郭昌の顔からサッと血の気が引くのが見えた。
「な……ッ! き、貴様、何をでたらめを!」
郭昌が吠えるが、近侍は視線すら向けずに言葉を続ける。
「国家予算の横領、売官による私財の蓄積。……そして何より、陰家襲撃の暴動を扇動し、資金を提供した真の黒幕は、他ならぬ郭家であるという『動かぬ証拠』にございます」
朝議の場が、水を打ったように静まり返る。
俺は逃げ道の一切を絶たれ、狼狽する巨大な害悪をただ静かに見つめ続けていた。
私怨で喚き散らす必要などない。
完璧な法と証拠で作られたこの冷徹な包囲網こそが、奴らの息の根を止める絶対的な刃となるのだ。
「ええい、黙れ! 誰の差し金か知らんが、偽造の木簡など何の意味もないわ!」
静まり返る堂内に、追い詰められた郭昌の怒声が響き渡る。
顔を朱に染め、熊のような巨躯を震わせて玉座の俺を睨みつける。
身に纏った豪華な金装飾が、焦りを代弁するようにじゃらじゃらと耳障りな音を立てた。
「陛下! 私が十万の兵を出さねば、貴様は北の雪原で野垂れ死んでいたのだぞ! その大恩を忘れ、このような下賤の者の作り話で私を陥れるおつもりか!」
過去の軍事同盟を盾に取った、見え透いた恫喝。
その横で、絶世の美青年――宰相の郭況が優雅な所作で一歩前に出た。
「父上、お静かに。……陛下、これは何かの誤解にございます。我々が、陛下の寵愛厚き陰家の方々を害して何の得がありましょう。すべては、郭家を妬む者の策謀。どうか、賢明なる陛下のご判断を」
滑らかな舌で己の無実を訴える、毒蛇のような男。
この男が裏でどれほどの汚職に手を染め、そしてあの純真な義弟から笑顔を引き出しながら、その命を無残に奪い去ったのか。
俺の掌に、焼け焦げ、黒い血がこびりついた竹簡の重みと匂いがまざまざと蘇る。
冷たく硬い玉座の肘掛けから手を離し、ゆっくりと立ち上がった。
「……恩義、だと?」
喉から出た音は、自分でも驚くほど静かでひどく冷え切っていた。
怒号など必要ない。
腹の底にあるのは、燃え盛る怒りすら凍りつかせるほどの万物を凍てつかせる憎悪だけだ。
「郭昌。貴様が口にする恩義とやらは、無力な学徒を騙し討ちにし、無抵抗の母から命を奪うことで報いられるものだったのか」
氷のような視線を、美しき宰相へと移す。
「郭況。貴様のその並外れた知恵は、国のため、民のためではなく、純粋な青年の真心を嗤い、金穴の闇を肥え太らせるためにのみ使われた。……己の知恵を国のために使わぬ貴様らに、明日の渭国を語る資格はない」
氷の弾劾を叩きつけられ、郭況の涼しげな仮面に初めて明確な亀裂が走る。
どれほど詭弁を弄しようと、すべては手遅れだ。
俺はすでに、あの日『彪哥』と呼んでくれた弟の血に染まった日記を読み終えているのだから。
愛する家族を奪い心を壊した貴様らに与える慈悲など、一滴も残されてはいない。
「耿敦」
「はっ!」
呼びかけに、岩のように強固な大将軍が冷徹な死神の顔で進み出る。
「郭昌、および郭況を大逆の罪で直ちに捕縛し、刑場へ引け。一切の弁明は無用。即刻、首を刎ねよ。一族の財産はすべて没収とする」
それは、長きにわたり朝廷を支配してきた巨大な壁が完全に崩壊した瞬間だった。
「離せ! 貴様、恩知らずめ!」
「陛下! 私は……ッ!」
金装飾をじゃらじゃらと鳴らしながら、見苦しく床を引きずられていく郭親子の絶叫が響く。
俺は、その惨めな背中が重い扉の向こうに消えるまで、ただ冷酷な玉座の修羅として瞬き一つせず見届けていた。
◆◇◆
朝議の場から近衛兵を率いて真っ直ぐに向かったのは、紫と金のけばけばしい調度品で飾られ、むせ返るような麝香の匂いが立ち込める椒房殿。
「陛下! 昼日中から御渡りとは。ようやく、正妻である私の元へ戻る気になられたのですね」
上座にふんぞり返っていた郭聖通は姿を見るなり立ち上がり、独りよがりな妄信に満ちた笑みを浮かべてすり寄ってくる。
その傍らには、大長秋である賈謐が卑屈な笑いを張り付けて控えていた。
こいつらはまだ知らないのだ。
最大の拠り所であった郭昌と郭況がすでに大逆の罪で首を刎ねられ、洛華の土と化していることを。
俺はすがりつこうとする女の手を冷気で弾き、一切の感情を排した声で宣告した。
「詔を下す」
異常な冷たさに、郭聖通の笑みが完全に凍りつく。
懐から取り出した詔書を広げ、かつて自分を縛り付けていた同盟の楔を、己の手で完全に断ち切る言葉を読み上げた。
「皇后郭氏、教令に背き、怨みを懐くこと鷹鸇の如し。天下の母たる資格なし」
それは、身分を根底から否定する冷酷無比な廃后の宣告。
鷹や隼のように残忍に、己の欲のために罪なき者を傷つけ、鸞からすべてを奪った罪。
もはや一片の言い逃れも許しはしない。
「な、何を仰っているの……? 私は正妻よ! 陛下が選んだのはこの私です! 父上が、十万の兵を持つ真定王が黙っていませんよッ!」
「貴様の父と弟は、先ほど朝議の場にて大逆の罪で首を刎ねた。金穴はとうに崩壊している」
「え……?」
郭聖通の顔から、すべての血の気が引いた。
俺が無言で兵士たちへ顎をしゃくると、容赦なく体を床に押さえつけ、腰に結ばれていた皇后の証――印綬の組紐を力任せに引きちぎる。
ブチブチッ、と。
金糸が引きちぎられる鈍い音が、豪華な宮に響き渡った。
「やめなさい! 返して、それは私のものよ! 陛下、お願いです、私を見捨てないでッ!」
床に這いつくばり、狂乱して見苦しく泣き叫ぶ女を、俺は万物を凍らせるような視線で見下ろした。
「貴様を、光の差さぬ冷たい北宮へ幽閉する。……二度と俺の、そして鸞の前に姿を現すな」
宣告に引き裂かれたような悲鳴を上げてその場に崩れ落ちる。
その様子を見て、青ざめた顔で逃げ出そうとしていた賈謐が耿翼の足元にすがりついた。
「ま、待ってください! 殺すのは惜しい! 私はすべてを知っているのですよ!? 隠し金も、この女の命令書も! 私の命と引き換えに、すべて売りましょう!」
保身のために最後は主人すらも売る浅ましさ。
だが、耿翼の瞳には冷たい軽蔑しか浮かんでいない。
俺は氷のような声で吐き捨てた。
「貴様の言葉など無用だ。後宮の物資を止め、暗躍した罪は万死に値する。即刻、刑場へ引き摺り出し首を刎ねよ」
命乞いをする悪徳宦官の声と、半狂乱になった郭聖通の悲鳴が、兵士たちに引き立てられて遠ざかっていく。
麝香の匂いが残る広間の中央で、千切れた金糸の組紐を軍靴で冷然と踏み躙った。
これで、愛する女を苦しめ続けた『外の檻』は完全に破壊されたのだ。
すべての断罪を終え、南宮の執務室へと戻った俺は、玉座に深く背を預け、長く重い息を吐き出す。
張り詰めていた殺意の糸が解け、体中を泥のような深い疲労が駆け巡っていく。
だが、その疲労を塗り潰すように、胸の奥には静かで絶対的な安堵が広がっていた。
長きにわたり俺の喉元に突きつけられていた刃をへし折り、後宮に蔓延る悪意の根源をすべて叩き潰した。
かつて晶陵の河のほとりで「必ず守り抜く」と誓ったあの約束を、俺は血塗られた粛清という形でようやく完遂したのだ。
俺を縛り付けていたすべての鎖は、今この刻をもって消え去った。
「鸞……。これでようやく、お前を閉じ込めるものは何もない」
誰にも邪魔されない、二人だけの空へ。
俺は愛する妻が待つ薬房の離れへと向かうため、玉座からゆっくりと立ち上がった。
◆◇◆
冷たい雨が上がり、夕暮れの淡い光が差し込み始めた薬房の離れに、後宮のすべてを根底から覆す激震の報せが届いていた。
大逆の罪による渭北の覇者の処刑。
そして、皇后の廃后と北宮への永久幽閉。
寝台の傍らに立つ太医令の崔粛が、静かに、だが確かな安堵を込めた声で告げる。
「……貴人様。これで、貴方様を縛り付けていた外の檻は、すべて消え去りました」
その言葉が落ちた瞬間だった。
麻の敷布に身を起こし、薄絹の産着に包まれた我が子を抱きしめていた私の瞳から、ぽろりと大粒の熱い水滴がこぼれ落ちる。
震える右手を伸ばし、自らの細い喉をそっと押さえる。
私を冷たい氷で覆い尽くしていた魂の檻は、外界の脅威が完全に粉砕されたという事実によって、音を立てて崩れ去っていくのを感じた。
もう、己の声を押し殺し、沈黙をもって身を守る必要はないのだ。
ひび割れた唇をゆっくりと開き、遠い南宮にいるはずのただ一人の男の顔を思い浮かべる。
肺の奥深くに、雨上がりの湿った空気を吸い込んだ。
「……ぁ……ら……ぉ……」
ひゅっ、と空気が漏れる音のあとに紡がれたのは、掠れ、震える弱々しい音。
喉の奥が焼け焦げるような激痛が走る。
だがそれは、確かに私自身が発した命の震えだった。
「ふぅ……っ」
固く石のように強張っていた筋肉が解け、熱い血が再び巡り始める。
「あ、ああ……っ、ああっ……!」
堰を切ったように、声なき慟哭は確かな嗚咽となって夕暮れの薬房に響き渡った。
視界を滲ませる涙の向こうに、かつて晶陵の河のほとりで見上げた青空が広がるような気がした。
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