第70話
南宮の執務室。
分厚い石壁が外気を遮断しているはずの玉座の間に、息が白く濁るほどの冷気が立ち込めている。
近侍の耿翼が、両手で抱えた竹簡の束を机の上に置いた。
カァァン、と。乾燥した竹が打ち鳴らす硬質で乾いた音が、静寂のなかへと不吉な響きを持って吸い込まれてゆく。
「陛下。……陰家襲撃を裏で糸引いた者たちの、証拠でございます」
絞り出すような近侍の声は、普段の流れるような穏やかさを完全に失っていた。激しい憎悪と抑えきれない怒りによって、その響きは小刻みに震えている。
無言のまま、差し出された竹簡の革紐を解く。
目に飛び込んできたのは、宮廷の底を這う者たちへと流れたおびただしい裏金の記録。そして、『陰家の贅沢を捏造し、愚民の怒りを煽れ』という、血の凍るような悪辣極まりない指示書の写しであった。
御史中丞である謝延。そして、後宮におけるその手先たる謝瑤。
渭北派の面目を保つための妥協として存在を見逃してやってきたあの女が、裏でこれほどの悪意を巡らせていたというのか。
愛しい鸞から言葉を奪い、あの純粋な義弟の血を啜ったのは、他ならぬ俺自身がこの後宮に引き入れ、野放しにしていた毒蛇だったのだ。
「……翼。ご苦労だった」
激しい怒りに震える近侍とは対照的に、口から零れ落ちたのは自分でも恐ろしいほど冷たく落ち着き払った声だ。
腹の底から湧き上がる怒りすら、もはやとうに通り越している。胸の内に渦巻くのは、最愛の妻の庭から害悪を完全に排除するという、万物を凍らせるような静寂と殺意のみ。
私怨で感情的に斬り捨てるわけではない。皇帝として完璧な法と証拠に基づき、一切の反論の余地も与えずに奴らをこの世から抹消するのだ。
「ただちに謝延と謝瑤を捕らえ、尋問場へ引き摺り出せ」
「はっ!」
筆の軸を力強く握りしめ、死刑執行の令状へためらいなく朱を入れた。
もはや政治の均衡など知ったことか。最も大切なものを壊した対価は、一滴残らず奴ら自身の血で支払わせてやる。
◆◇◆
冷たい石床が広がる、光の差し込まない薄暗い尋問場。
完全武装した近衛兵たちに両脇を抱えられ、二つの惨めな人影が引きずり出されてくる。
大逆の罪人へと転落した、謝延と謝瑤だ。
つい数日前まで皇后の威光を笠に着てふんぞり返っていた者たちが、今は粗末な衣を纏わされ、冷たい石床に無様に這いつくばっている。死の恐怖に怯え、激しく歯の根を鳴らす音が湿った空気の中に不気味に響いていた。
玉座に深く腰掛けたまま、無言で一束の竹簡を足元へと放り投げた。
カラン、と乾いた音を立てて転がったそれを、謝延が震える手で拾い上げる。記された裏金の帳簿と、市井の暴漢へ暴動を指示した己の筆跡を見た瞬間、その脂ぎった顔から一気に血の気が引いていくのが見て取れた。
「へ、陛下……っ! お、お待ちください!」
言い逃れができないと悟った男は保身のために醜く顔を歪め、必死に床へ額を擦りつけ始める。
「私は、私はただの使いっ走りなのです! 命令したのは郭況様だ! 郭昌様だ! 皇后様がお命じになったのです! 私は悪くない、私は言われた通りにしただけで……ッ!」
実の娘が隣で青ざめて震えているというのに、己の命惜しさに主人を売り、必死に責任を転嫁して喚き散らす。
この世の最も薄汚い汚物でも見るかのような冷徹な視線で、その醜態をただ見下ろした。
(こんな……こんな小賢しく浅ましいネズミどものせいで、鸞はすべてを奪われ、心を壊してしまったというのか)
怒りすら湧かない。果てしない虚無感と、静かで底知れぬ殺意だけが腹の底で黒く渦を巻いている。
「……黙れ」
極限まで低く落とした声を放つと、醜悪な命乞いがヒュッと喉の奥で詰まり、尋問場が完全な氷の静寂に包み込まれる。
「貴様が誰の犬であろうと、誰の命令であろうと関係ない。貴様らが私欲のために悪辣な嘘を流布し、鸞の家族を殺した事実に変わりはない」
ゆっくりと立ち上がり、氷のような眼差しで罪人たちを一瞥した。
「引き摺り出せ。一切の弁明は不要だ」
「ひぃぃッ! 陛下、お願いです、お許しをぉぉッ!」
床にすがりついて泣き叫ぶ男と、恐怖で腰を抜かして声も出ない女が、兵士たちによって荒々しく引き摺られてゆく。
奴らの行く先は、冷たい刃が待つ刑場にほかならない。
◆◇◆
血塗られた歴史を刻んできた洛華の刑場。夕暮れの冷たい風が吹き抜け、重い鉄の匂いが立ち込めている。
即刻の斬首が言い渡され、刑台に引き出された謝延はもはや声も出せず、ただ震えるだけの肉の塊と化していた。
だが、隣に引き立てられた謝瑤は違う。処刑人の持つ巨大な刃を見た瞬間、死の恐怖に狂乱し、立ち会いのために高台に立つ俺に向かって髪を振り乱しながら絶叫し始めたのだ。
「嘘……嘘よ! 私は言われた通りにしただけです! 皇后様がお命じになったのです!」
荒縄で縛られた身をよじり、血走った目でこちらを睨みつけてくる。
「陛下、お願いです! 私は華や英たち、二人の子供を産んだのですよ!? 陛下の血を引く皇子と皇女の、母親を殺すのですか! お願いぃぃぃッ!!」
己の保身のために、産んだ子供すら盾にする卑劣さ。
自分の命が惜しいがために他者の家族を無惨に殺し、追い詰められれば我が子を免罪符にする。どこまでも浅ましく、醜悪な魂だ。
「……母親だと?」
氷点下の低い声が漏れる。
これ以上、この卑劣な口に皇子たちの名を呼ばせることすら反吐が出た。
「貴様が子をなしたのは、ただ己の野心と虚栄を満たすためだろう。あの子供たちすら、貴様にとっては権力を得るための駒に過ぎなかったはずだ。……貴様らの汚れた命など、鸞の流した涙、その一滴にも満たぬ」
その言葉に、女の顔が絶望と、信じられないものを見るような驚愕に染め上げられる。
子供を産んだ母親というだけで、情けをかけられるとでも思っていたのだろうか。心から愛し、己の胤を宿すことを望んだのは、この世でただ一人、愛しい妻だけなのだ。
「安心しろ、子供たちの命は奪わぬ。だが、皇籍は今この刻をもって永久に剥奪する。名も廃し、都から遠く離れた地で平民として生きる」
「あ……ああ、ああっ……!」
皇族の母という地位と栄華だけに縋りついてきた浅ましい者へ与えられたのは、己の存在意義そのものを根底から消し去る完全なる抹殺の宣告。物理的な死よりも残酷な絶望の淵へと、容赦なく突き落としてやる。
絶望に染まった断末魔の悲鳴が、刑場に響き渡った。
その見苦しい顔から冷酷に視線を外し、ただ無言で処刑人へ顎をしゃくる。
ヒュッ、と。
冷たい刃が風を切る重い音が、二度、夕暮れの空に響く。
ドサリと崩れ落ちる肉体の音。そして、さらに濃くなる血の匂。
地に転がった者たちには一切の興味も示さず、ただ血に染まりゆく洛華の空を静かに見上げた。
(鸞……。まず二つ、お前の光を奪った害悪を取り除いたぞ)
だが、これで終わりではない。これは、愛しい女を脅かす世界を完全に破壊するための、ほんの序章に過ぎないのだから。
◆◇◆
刑場から南宮の執務室へと戻り、微かに染み付いた血の匂いを纏ったまま玉座に深く腰を下ろす。
第一の粛清。謝一族の斬首はまたたく間に宮廷と後宮を駆け巡り、洛華の闇に震え上がるような恐怖を植え付けたに違いない。
だが、瞳の奥で燃え盛る修羅の炎は、まだ微塵も鎮まってはいなかった。
渭北の覇者である郭昌と、その後ろ盾で甘い汁を吸い続ける宰相・郭況。
あの傲慢で底なしの強欲どもは、今頃高みの見物とばかりに祝杯でも上げているのだろうか。
『手下の小物が片付けられたに過ぎない。強大な軍事力と権威がある限り、皇帝とて手出しなどできまい』と高を括り、自らの安全を信じてふんぞり返っている姿が目に浮かぶ。
暗い執務室で、声もなく冷笑をこぼす。
己が切り捨てたトカゲの尻尾が、死の淵でどれほど醜悪に主人を売ったかも知らずに。
「……陛下」
静寂を取り戻した執務室に、近侍の抑え殺した声が響いた。
机の上に恭しく置かれたのは、さらなる分厚い竹簡の束だ。ゴトリ、という重く鈍い音が玉座の間に落ちる。
「謝延の供述と、残された帳簿の記録をたどり……ついに、郭況の『金穴の闇』へと通じる資金の流れを完全に掴みました。暴動の資金源は、間違いなく郭家そのものにございます」
有能な近侍の眼差しには、主の悲劇を決して許さないという冷たい復讐の光が宿っている。
これで、すべての外堀は埋まった。
奴らは自分たちの足元が完全に崩れ去っていることにも気づかず、いまだ玉座を操っていると錯覚したまま泥の中で踊り狂っているのだ。
「ご苦労だった、耿翼。……これで、忌まわしい獣どもの息の根を止めることができる」
新たな動かぬ証拠が記された竹簡の上に手を置き、暗闇の彼方――郭一族へと向かって、嵐の前の静かで重い宣戦布告を放つ。
震えて待っているがいい。
貴様らが妻から奪ったものの代償は、ただの死では生温い。一族の血と歴史、そのすべてをもって支払わせてやる。
この『狂虎』が、貴様らの慢心を粉々に叩き割り、絶望の底へ突き落としてやる。
冷え切った夜の闇の中で、最大の障壁を完全排除するための冷徹な決意を固め、静かに修羅の目を開いた。
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