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【完結】比翼の乱世:老虎と鸞鳥の契り  作者: 深山 凛
◆第四章◆

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第69話

水を打ったように静まり返った南宮の執務室。

先ほどまで壁を震わせていた武官たちの血気盛んな怒号は完全に消え失せ、誰かの浅い呼吸音だけがやけに輪郭を持って鼓膜を打っている。

玉座の硬い肘掛けに指を食い込ませたまま、俺は完全に声を失っていた。


目の前に立つ男が身に纏っているのは、一切の装飾を削ぎ落とした白く粗末な麻の衣。

昨日まで平穏に過ごしていたはずの母と弟を理不尽な暴力で一度に喪ったという、深すぎる絶望を体現する喪服。

陰識(イン シキ)。亡き兄の無二の親友であり、俺がただ一人妻と定めた女の義兄である。


俺の歪な寵愛が、彼の最も大切な家族を死の泥濘へと引きずり込んでしまった。

義兄が今、その分厚い掌に握りしめているものが俺の喉笛を掻き切るための短刀であっても、あるいは玉座から引き摺り下ろすための痛烈な恨み言であっても構わない。すべてを正面から受ける覚悟で息を潜める。


だが、眼前に歩みを進めた識は、ただの一度も声を荒らげることはなかった。

氷のように一切の感情を殺した横顔のまま、臣下としての完璧な礼節をもって深く、恭しく頭を下げる。




「……陰家当主、陰識。御前に罷り越しました」




大理石の床を這うような低い声。そこには、俺を糾弾する熱すら存在しない。

ただ『当主』としての冷徹な責務のみを果たすその絶対的な臣従の態度が、どんな剥き出しの刃よりも深く俺の鳩尾を抉った。




(責めてくれ。俺の愚かさを、恩知らずな行いを、思い知らせてくれ)




血を吐くような無言の懇願は分厚い沈黙に阻まれ、決して言葉にはならない。

陰識は静かに頭を上げた。




「陛下。暴動の扇動者に繋がる証拠を、お持ちいたしました」




両手で差し出されたのは、俺の命を狙う刃でも辞表でもなく、端が酷く焼け焦げ、べっとりと黒い血が染み込んだ一束の竹簡であった。




「これは……」




「弟、陰歆(イン キン)の遺品にございます。焼け落ちた屋敷の、あやつの自室から見つかりました」




玉座から身を乗り出し、震える両手を伸ばしてその竹簡を受け取る。

掌にズシリと乗ったのは、単なる木の重みではない。火傷しそうなほどの熱の残滓と、むせ返るような鉄と灰の匂い。何の罪もない純粋な青年の、理不尽に奪い取られた命の重力そのものだ。




「中には、暴動の直前まで弟が記していた日々の記録……そして、誰から何を与えられたかが残されております」




陰識の瞳の奥で、ただ一度だけ青白い炎が微かに揺らいだ。

指先にこびりつく炭の粉と黒い血の感触を握りしめ、呼吸すら忘れるほどの重圧にただ玉座の上でじっと耐え続けるしかない。


息を呑む音すら響く堂内に、突如として甲高い破壊音が轟いた。




「離して! 入らせなさいッ!」




バァァンッ、と無作法に重厚な扉が押し開かれる。武官たちがぎょっとして道を空ける先、軍議の場に乱入してきたのは、髪を乱し、大粒の滴で顔を濡らした妹の寧(ネイ)だった。




「寧! いけない、ここは陛下がおられる場だ!」




近侍として控えていた翼が慌てて駆け寄り、その細い肩を抱き留めようとする。だが、普段は声を荒げることのない妹は、夫の腕を渾身の力で振り払った。

識すらも止める間もなく真っ直ぐに玉座の階段の下まで進み出ると、強張った顎を上げ、こちらをキッと睨み据える。




「お兄様! 私の大事な家族を返して!!」




天下を統べる皇帝に対して『お兄様』と叫ぶ、血を吐くような慟哭。

皇族の長公主としての建前などすべてかなぐり捨て、裂けそうな喉から絞り出されたその声を、誰一人として止めることなどできなかった。




「お兄様は天下を治める英雄かもしれませんが、家庭においては愚か者です!」




ビシャリ、と。

目に見えない平手打ちを食らったように、顔面から血の気が引いていく。




「お兄様が渭北(いほく)で郭氏を娶り、私に晶陵(しょうりょう)の街の人々が『恩知らず』だと石を投げられそうになった時……私を屋敷に匿い、冷たい世間の目から守り抜いてくれたのは陰家の方々です! 共に食事をし、私を実の娘や姉弟(きょうだい)のように過ごしてくれた……私にとって本当の家族なのです!」




寧の目からとめどなく雫がこぼれ落ち、白く透き通る頬を濡らして顎から滴り落ちる。

遠征で故郷を離れ、命を守るためとはいえ郭聖通(カク セイツウ)と重婚したあの日。置いてけぼりにされ、行き場を失った妹を陰口から守り抜いてくれていたのは、義理の母殿や心優しい歆だったのだ。




「それなのに、お兄様は! ひたすらお兄様の無事を祈り、待ち続けていた義姉様を側室に貶めただけでなく、あんな悪辣なデマが街に流れるのを放置なさった! 陰家の方々がどれほど耐え忍んでいたか……私だけが、ぬくぬくと温かい家庭で暮らしていることが、申し訳なくてたまらないのですッ!」




その悲痛な叫びは、軍議の場にいる誰の胸をも深く打ち据えた。

皇帝という仮面の下に必死に隠してきた俺の不義理が、容赦なく白日の下に引き摺り出されていく。

政治の均衡のためだ。後宮の波風を立てないためだ。

そんなものはすべて、己を正当化するための言い訳に過ぎない。俺は天下を平定する英雄などではなく、最も恩義ある人々の誇りを泥で穢し、最愛の女からすべてを奪い取った、最も愚かな恩知らずにほかならない。




「返して!! 私のお母様を……弟を……歆を返してよ!!!」




俺は血の滲む竹簡を握りしめたまま、ただ俯き、妹の裂けそうな喉から放たれる非難のすべてを胸を貫く無数の矢として受け止めるしかなかった。




◆◇◆




寧の悲痛な叫びと重い沈黙だけを残してやがて軍議は解散となり、重厚な扉が閉まると、南宮の執務室は深い夜の静寂に包み込まれた。

燈台の炎が微かに揺れるなか、玉座を降り、硬い大理石の床の上で一人、血と灰に塗れた書簡と向き合う。


識から託された、歆の遺した日記。

指先が白く変色するほどきつく握りしめながら震える手でゆっくりと開き、黒ずんだ血痕の下に残る義弟の丁寧で真っ直ぐな筆跡を追う。


『今日、郭宰相様より珍しい古書をお借りした。このような下級の学徒にも分け隔てなく接してくださる、噂に違わぬ高潔な御方だ』


その一文を目にした瞬間、気管が塞がったように呼吸が止まった。

あの宰相のような底なしの悪党に狙われ、純粋に相手を尊敬していた義弟の無邪気さ。その無防備な善意が結果として彼自身の命を奪う刃となったのだと思うと、腹の底が煮えくり返る。

だが、胸を最も深く抉り、息の根を止めにかかったのは、竹簡の端々に記されている言葉だった。


『彪哥(彪兄さん)』。


かつて俺をそう呼んでいた呼び名が、日記のあちこちに、昔と変わらぬ温もりを伴って並んでいた。


『姉様がいつの日か、彪哥の比翼の片割れとして、心から笑える日が来ることを願う』


ポタリ、と。

乾燥した竹の表面に、熱い水滴が弾けた。視界がぐにゃりと歪み、黒い墨の文字が滲んで見えなくなる。


俺は、なんという取り返しのつかないことをしてしまったのか。

天下を平定し、皇帝としてこの洛華(らくか)に君臨し、妥協案として鸞(ルァン)を『貴人』に落としたあの日。愛しい女の誇りを奪っただけでなく、この心優しい義弟から『彪哥』と呼ばれる資格すら自らの手で永遠に捨て去ってしまった。

あいつがどれほど俺を慕い、ただ純粋に姉夫婦の幸せだけを願い続けていたか。その想いを、俺は政治という都合のいい大義名分で踏みにじり、最も残酷な形で裏切ったことになる。




「ああ……っ、あああ……ッ!」




呼吸を忘れるほどの胸の激痛に、誰もいない執務室で慟哭を漏らす。

天下を統べる皇帝としての権威も、何万という強大な軍勢も、この一人の純粋な青年の血の通った願いの前ではチリほどの意味も持たなかった。絶対的な虚無感が、魂を真っ黒な絶望の底へと引きずり込んでゆく。


火傷しそうなほどに重い血の染み込んだ竹簡を胸に掻き抱き、冷たい床の上でただ無様に膝から崩れ落ちた。


どれほどの時が経っただろうか。

床に這いつくばり、枯れ果てるまで水分を流し尽くした視界の隅で、日記の余白に記された文字が再び冷酷にその姿を現した。


『宰相様は、我が家を案じてくださった。本当に優しい方だ』


その一文が目に焼きついた瞬間。胸を塞いでいた深い悲哀が、一瞬にしてすべてを焼き切る業火へと反転する。

純粋な学徒を嘲笑い、あの麗しい作り笑いの裏で情報を引き出し、最後は市井の暴徒に偽装させて惨殺したのだ。


北の雪原で、鸞への愛情を「若さゆえの感傷」と鼻で笑った郭昌(カク ショウ)。

後宮という檻のなかで、「私が正妻だ」と我が物顔で振る舞い、鸞を侮辱し続けた郭聖通。

そして、純真な義弟を騙し討ちにした、あの卑劣極まりない郭況(カク キョウ)。


ギリッ、と。

俺の内側で、長年己を縛りつけ抑圧し続けてきた分厚い鉄の鎖が、音を立てて砕け散る感覚がした。


父の遺言に従い、ずっと己の中の『虎』を飼いならしてきた。渭北の軍事力が必要だったからだ。天下を平定し国の基盤を盤石にするためには、奴ら郭一族の横暴にも目を瞑り、政治の均衡を保つしかなかったからだ。

だが、その冷徹な計算と妥協が何をもたらしたというのか。

最も恩義ある家族の血を流させ、この命に代えても守り抜くと誓ったただ一人の女から、生きる気力すらも奪い去ってしまったではないか。




「……もはや妥協も、政治の均衡もいらぬ」




冷え切った執務室の空気を裂くように、喉から獣の咆哮にも似た低く重い呼気が漏れる。




「鸞が二度と泣かぬよう、愛しい女を脅かす世界を……我が恩人を奪った忌まわしい獣どもを、俺がこの手で完全に根絶やしにしてやる」




血の滲む竹簡を自らの胸に深く抱き込み、ゆっくりと立ち上がる。

玉座の背後にある窓から白み始めた黎明の光が差し込み、顔を照らし出した。

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