第68話
ザァァ、ザァァ……。
薬房の屋根瓦を絶え間なく打ち据える雨音だけが、外界から完全に切り離されたこの密室に降り注いでいた。
部屋の隅に置かれた古い火鉢のなかで、煎じている生薬がパチリと微かな音を立てて爆ぜる。その乾いた音が、私と陰鸞貴人様の間にある分厚い静寂をほんの少しだけ揺らした。
「……私はかつて、中州の片田舎で、細々と学問を教えるしがない儒学者でございました」
私は一切の装飾を削ぎ落とした、低く静かな声で語り始めた。
寝台の麻布に横たわる貴人様の虚ろな瞳は、依然として暗い水底を漂うように一点を見つめたままだ。だが、私はこの方の魂の奥底へ、一滴ずつ温かな薬湯を染み込ませるように言葉を紡いでゆく。
「貧しい身なりではありましたが、気のいい妻と、まだ幼い娘がおりました。竹簡を読み聞かせれば笑い転げる、日だまりのような家族でした。ええ……とても満ち足りた、ささやかな日々だったのです」
過ぎ去った記憶の蓋を開けるたび、胸の奥にとうの昔に枯れ果てたはずの鈍い痛みが蘇ってくる。
この胸を内側から抉る感覚は、今まさに貴人様が感じている地獄と、同じ色、同じ重さを持つものに違いない。
「ですが……戦乱の余波と共に、村に得体の知れない流行り病がやってきました。あっという間に妻が倒れ、数日と経たずに娘も高熱を出して伏せました。私は手元の書物をすべて売り払い、医者を呼び、薬を求めようと街を奔走いたしました。しかし、戦火の中で薬は枯渇し、貧しい学者を助けてくれる者など誰もいなかったのです」
当時の光景が、火鉢の微かな赤い炎の奥に重なる。
苦し気に息を喘がせ、みるみるうちに命の灯火をすり減らしていく妻と娘の姿。己の膝の上で、血の気が引くほど固く握りしめた拳をただ見つめることしかできなかった。
「あの時ほど、己の無力さを呪った夜はありません」
声が、微かに震えを帯びる。
「何万という文字を知り、古の聖人の教えを暗唱できても……目の前で苦しむ家族の熱を下げる薬草の知識一つ、私にはなかった。矢も、薬も、何より自分自身に『命を救う知識』がなかったために、私はただ手を握り、愛する妻子が冷たい骸へと変わっていくのを無様に看取ることしかできなかったのです」
寝台に横たわる貴人様の長い睫毛が、微かに揺れた。
大切な者を理不尽に奪われ、己の無力を呪う絶望。それは、今のこの方が自らの魂を冷たい檻に閉じ込めている『罪悪感』そのものだ。
「冷たくなった妻と娘の亡骸を前に、私は血を吐くような思いで誓いました。『二度と無知によって、誰かの命を失わせはしない』と」
火鉢の小さな赤い炎が、私の声に呼応するように細く揺らぐ。
「そのためには、世にあるあらゆる医書と薬草の知識が必要でした。しかし、それは権力と富の集まるこの宮廷の奥深くにしか存在しなかった。……ですから私は、己の男としての尊厳を切り捨て、宦官となってこの後宮へ這い上がってまいりました。すべては、二度とあの絶望を繰り返さないために」
静かに言葉を切り、寝台で横たわる主君の瞳を真っ直ぐに見据える。
一切の光を宿していなかった瞳の奥が、ほんのわずかに揺らいだのがわかった。
「ですが、知識だけでは命は救えませぬ。戦火が静まり、街道が開き、南からも北からも薬草が滞りなくこの都へ届くようにならなければ、私は今、貴方様の御前で鍼を打つことも、薬湯を淹れることもできなかった」
外の雨音を背に、私はさらに一歩、魂の深淵へと踏み込む。
「皇帝陛下が泥にまみれ、血を流して天下を平定されたからこそ……この平和な世を築いてくださったからこそ、あの惨劇の夜を越えて、今ここに、貴方様の命を繋ぎ止めるための道が開かれているのです」
その言葉が落ちた瞬間、貴人様の細い喉が微かに、しかし確かに上下に動いた。
息の仕方を忘れたように浅くこわばっていた胸の動きが、語る言葉の熱に引かれるように、少しずつ私の呼吸と同期していく。
「……貴人様」
己の魂の底から湧き上がる切実な祈りを込めて、静かに語りかけた。
「私は、天下を治める英雄のことは分かりませぬ。ですが……私はいち医官として、いや、かつて守るべき者を守れなかった一人の愚かな男として、私の目の前にあるこの『命』だけは、二度と手放しはしない」
ピシッ、と。
分厚い氷で覆われていた心に、確かなヒビが入る音が聞こえた気がした。
そのかすかな雪解けの気配に応えるように、背後の分厚い扉が音を立てずに開く。
冷たい夜風と共に薬房へ滑り込んできたのは、涙で目を赤く腫らした侍女の柳婉だった。腕の中には柔らかな布に包まれ、すやすやと穏やかな寝息を立てる小さな命――第五皇子、陽殿下の姿がある。
「先生……殿下が、お母様を求めて……」
柳婉が震える声で囁いた。私は静かに頷き、寝台の傍らへ来るよう促す。
そっと殿下を預かると、凍りついたままの陰貴人様の細く白い腕の中へ、その小さな体を静かに下ろした。
腕の内に伝わる、赤子の柔らかく温かい体温。
静寂の部屋に、トクトクという小さな、しかし力強い命の鼓動が響く。そして、かすかに漂う甘い乳の匂い。
貴人様の大きな瞳が、ゆっくりと腕の中の小さな顔へと向けられた。
「貴人様。貴方様は、すべてを失ったわけではございません」
私は魂へ最後の一撃を打ち込むように、はっきりと告げる。
「ご実家が理不尽に奪われたのだとしても、貴方様の腕の中には、まだ守るべき温かな『火種』がいらっしゃる。この小さな命は、貴方様が暗闇の中で命がけで繋ぎ止めた、何よりも確かな希望のはずです」
貴人様の瞳の奥で、何かが激しく揺らいだ。
「自分を責め、泣いて死ぬだけの孤鸞に御成になるな。生きなさい。母として、この命を悪意の泥から守り抜くために、生きて、声を上げなさい」
その言葉が落ちた瞬間だった。
貴人様の瞳に、決定的な命の光が宿る。
この美しき青鸞は、まるでこの世のすべての宝を抱き込むように、震える腕で我が子の小さな体を己の胸へと強く抱き寄せた。
「……ぁ、あ……っ」
声帯は硬直したままだ。明瞭な声など出ない。
だが、ひゅっ、ひゅっと空気が漏れる痛ましい音と共に、堰を切ったように大粒の熱い涙が溢れ出し、青白い頬をとめどなく濡らしていった。
喉を激しく震わせ、赤子の温もりを確かめるように背中を丸め、声にならない絶叫を上げながら激しく慟哭し始める。
◆◇◆
夜を徹して降り続いた雨が上がり、洛華の空は鉛色の雲に覆われたまま冷たい朝を迎えていた。
南宮の執務室には、鉄と血の匂いが充満している。
耿敦をはじめとする南苑州の武将たちが居並ぶ軍議の場は、血気盛んな怒号と凄まじい熱気に包まれていた。
「洛華市井の暴徒の鎮圧は完了いたしました。だが、あれは単なる群衆の暴走ではない。背後でデマを流し、糸を引いている者が必ずおります!」
「洛華の路地裏から、ネズミ一匹たりとも逃がすな。関与した者はすべて捕らえ、極刑にせよ」
俺は玉座から見下ろし、一切の感情を排した声で命を下した。
これまでは朝廷の均衡を保つため、渭北の連中の増長にもあえて目を瞑ってきた。だが、奴らは俺の最も大切なものを土足で踏みにじり、無惨に破壊したのだ。
瞳に宿っているのは、もはや皇帝としての政治的な計算でも寛容でもない。あるのはただ、愛する者を壊された怒りに飢える冷酷な決意だけだった。
「……その背後に誰がいようと構わん。必ず、すべての者に代償を支払わせる」
低く冷ややかな声に、武将たちが息を呑み、一斉に平伏する。
その時だった。
ギィィ……と。
執務室の重厚な扉が、ゆっくりと開かれた。
熱気と怒号が飛び交っていた軍議の場が、その足音一つで、まるで水を打ったような圧倒的な静寂に包まれる。
現れたのは、陰識だった。
だが、その姿を見た瞬間、俺の心臓は冷たい氷の手で鷲掴みにされたように凍りつく。
屈強な近衛軍団長はいつもの実用的な武官服ではなく、一切の装飾を持たない、白く粗末な麻の衣――深い喪に服すための衣を纏っていたのだ。
母と弟を惨殺されたばかりの男。
かつて俺に絶縁状を叩きつけ、そして今、俺の間違った寵愛のせいで最も理不尽な死と喪失を強いられた、最も合わせる顔のない義兄。
喪に服す男は感情の抜け落ちた静かな瞳で、居並ぶ武将たちの間を抜け、真っ直ぐに玉座の御前へと歩みを進めてくる。
粗い麻の繊維が擦れる乾いた音が、しんと静まり返った堂内に異様に大きく響いた。
その手には、何かが固く握りしめられている。
剣か。それとも、俺を再び断罪するための絶縁状か。
極限の緊張感が張り詰めるなか、冷たい死と喪失の匂いを纏った義兄と、玉座の修羅が、重く無言の視線を交差させた。
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