第67話
分厚い石壁と二重の木扉の内側に、外界の濁った空気は届かない。
私が管理するこの後宮の離れ――太医署の奥にある薬房は、ただ規則的に屋根を叩く冷たい雨音と、薬湯を煮出す土鍋が静かに沸き立つ湯の音だけが支配する、絶対的な「静」の空間であった。
「……」
寝台の上で横たわる陰鸞貴人様は、身動き一つしない。
見開かれたままの大きな瞳は、どこか遠い虚空を見つめたまま瞬きすら忘れているかのようだ。その青白い頬や微かに震える指先からは、生きる気力という熱が完全に抜け落ちてしまっている。
――『あれは怨を呑んで死んだ家族の呪いだ』
――『穢れが後宮に蔓延してしまう』
外の世界では、彼女の悲劇を無知な野次馬根性で消費し、悪辣な噂を囁き合う者たちの声が満ちている。
だが、医官である私にはわかる。この方を絡め捕っているのは、怨霊の呪いなどではない。
あまりにも理不尽で強烈な喪失を前に心が耐えきれず、自ら外界との繋がりを完全に断ち切ってしまったのだろう。悲嘆と絶望のあまり魂が千切れかけ、どうにか己を保とうと喉の奥へ堅く鍵をかけてしまった、哀しい悲鳴の痕にほかならなかった。
静かに手元の作業を続ける。
陶器の茶碗が微かに触れ合う、高く澄んだ音。薬研で生薬を挽く微かな擦過音。それらの音をあえて耳に届くよう、規則正しく静かに響かせた。
やがて、部屋の中に清冽な緑茶と、心を落ち着かせるための葛根や桂枝を合わせた薬湯の香りがふわりと立ち込める。
権力者たちの欲に弄ばれ、見当違いの嫉妬に晒され、もっとも大切な家族の命まで奪われてしまった美しい青鸞。
欲にまみれた者たちが保身のためにこの宮を遠ざけようとも関係ない。私の眼前に横たわっているのは、ただ救いを待つひどく脆く気高き一つの命なのだ。
ゆっくりと茶碗を置き、清潔な布で手を拭う。
そして、傍らに置かれた白木の箱から、痛みを極限まで抑えるために特別に打たせた髪の毛よりも細い銀鍼を一本、静かに抜き取った。
この冷え切った悲しみの檻から、必ず現世へと引き戻す。
揺るぎない使命感を胸に、音もなく寝台の傍らへと歩み寄った。
指先に挟んだ極細の鍼を、寝台に横たわる陰貴人様の首筋へとそっと触れさせる。
皮膚越しに伝わってくるのは、尋常ではない筋肉の強張り。まるで見えない恐怖から急所を守るかのように、体は限界まで固く縮こまり、命の熱を内側へ閉じ込めてしまっていた。
「……少し、チクリといたしますよ」
ゆっくりと、そして細心の注意を払って、強張った首筋のツボへと鍼を沈めていく。
極細の鍼は皮膚に抵抗を感じさせることなく、凍りついた筋肉の奥へと進んでゆく。続けて、白く透き通るような手首にも、滞った気と血を巡らせるための鍼を静かに打った。
通常の患者であれば微かな痛みや違和感に身をよじるものだが、貴人様は人形のように身動き一つしない。瞬きすらしない虚ろな瞳は私の手元を見ることもなく、ただ遠い虚空を漂っている。
それでも、決して反応を急かすような真似はしなかった。
「もうすぐ終わります。この鍼が、必ず貴方様の凍りついた気を解きほぐしてくれるはずです」
ただ一人の尊い人間として心に直接触れるように、低く穏やかな声で語りかけ続ける。
ザァァ、ザァァ……。
規則的に屋根を叩く雨音に混じって、薬房の分厚い扉の向こう側に、ただじっと立ち尽くす気配を感じた。
足音すらないが、私にはわかる。
それは、天下を統べる覇王の気配。おそらく軍議の合間に居ても立っても居られず、冷たい雨に濡れそぼちながらここまで足を運ばれたのだろう。
扉を開け、中へお通しするのが臣下としての務めである。
だが、私は鍼から手を離すことも、扉へ歩み寄ることもなかった。
今の貴人様をこの絶望の底へ突き落としたのは、他ならぬ覇王の不器用で歪な偏愛が引き起こした惨劇なのだ。どれほど血の涙を流して悔やみ、外で濡れながら立っていようとも、今の帝がこの部屋に足を踏み入れれば、その傷口を無惨に広げ、さらに心を固く閉ざさせてしまうだけだ。
扉の外で雨に打たれる絶対者の気配を、あえて意識から完全に締め出す。この薬房は、弱り切った命を繋ぎ止めるための不可侵の聖域。たとえ天下を統べる皇帝であろうとも、彼女の心をわずかでも脅かす不穏な気配を持ち込むことなど決して許しはしない。
権力者たちの欲に弄ばれ、壊されてしまったこの美しい鳥を、私は必ず現世へと引き戻す。
孤高の医官としての熱い執念を胸に秘め、再び目の前の小さな命へと静かに対峙した。
夕暮れが近づき、薬房の窓から差し込む光が徐々に薄青く染まり始めている。
外の雨は相変わらず外界の穢れを洗い流すかのように、一定のリズムで静かに降り続いていた。
一通りの治療を終え、首筋や手首から慎重に極細の鍼を抜いていく。
凍りついていた筋肉の強張りが、指先を通してほんの少しだけ和らいだのを感じる。だが、肉体の強張りが解けたとしても、魂の強張りが解けたわけではない。
卓へ戻って先ほど淹れた薬湯の茶碗を手に取れば、清冽な緑茶の香りが部屋の澱んだ空気を優しく浄化していくのを感じる。匙で温かい茶を掬うと、微かにひび割れた小さな唇へとそっと運んだ。
「……飲み込むのがお辛いでしょうが、ゆっくりと」
決して急かすことなく、少しずつ、慎重に口内へと温かな茶を含ませてゆく。
嚥下の動きすらも弱々しかったが、ほんのわずかに喉が動き、茶の温もりが冷え切った内側へと染み込んでいくのがわかった。
その瞬間だった。
すべてを諦め、ただ虚空を漂うだけだった大きな瞳から、ぽろりと、一筋の涙がこぼれ落ちたのだ。
「……っ」
かすかな吐息。それは言葉にならない絶望の涙であったが、外界からの温もりに心がわずかに反応を示した、確かな証拠であった。
私は清潔な布を取り出し、青白く冷たい頬を伝うその熱い涙の軌跡を、壊れ物に触れるように優しく拭い取る。
その澄んだ涙を見た時、私は、心の奥底に広がる果てしない闇の正体にたどり着いた。
声を出せなくなったのではない。己の至らなさが最愛の家族を死に追いやったのだと、自らを罰するために言葉を捨てたのだ。その底知れぬ後悔と罪悪感が喉を内側からきつく縛り上げ、見えない檻となってこの気高き魂を痛ましいほどに痛めつけている。
私には、男としての闘争心も、女を支配しようという欲もない。とっくの昔に男を捨て去った宦官の身だからこそ、権力者の情念や後宮の嫉妬に傷つき果てたこの方の痛みが、我がことのように透き通って見えた。
夜の帳が完全に下り、雨足がさらに激しさを増してくる。
分厚い石壁と雨音の壁が、この薬房を外界から完全に隔離された密室へと変えていく。私は、声なき慟哭を流し続ける美しい青鸞の傍らに静かに座り直した。
そして、虚ろな視線を真っ直ぐに受け止め、雨音に溶け込ませるような低く穏やかな声で告げる。
「貴人様……。声が出ないのは、ご自身に罰を与えているからでしょう。愛するご家族を守れなかったのは、すべて自分のせいだと」
図星を突かれ、華奢な肩が微かに震え、大きな瞳が私を捉えた。
「私には、貴方様のその地獄が痛いほどわかります」
私は、己の胸の奥底に堅く封印していた、最も深く凄惨な傷跡にそっと触れる。
この方の凍りついた魂を深い絶望の淵から引き上げるためには、私自身が覆い隠してきた血塗られた過去の傷を抉り出し、共に同じ暗闇へと降りていくほかないのだ。
「私がなぜ、男を捨ててまでこの宮の医官となったのか……お話ししましょう――」
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