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【完結】比翼の乱世:老虎と鸞鳥の契り  作者: 深山 凛
◆第四章◆

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第66話

深い夜の闇が後宮を重く包み込んでいる。

南宮の寝所で、薄絹の夜着越しに伝わってくる陽の小さな体温を抱きしめながら、微睡みの淵を漂っていた。甘い乳の匂いが、規則正しく上下する小さな胸から漂ってくる。

すぐ背中から伝わってくるのは、規則正しく繰り返される深い呼吸と分厚い胸板の熱。たった一つの誇りを砕かれたというのに、この揺るぎない腕の強さだけが、私を後宮の冷たい暗闇から繋ぎ止める唯一の命綱になっていた。




「陛下、失礼致します!」




ドォォォン!




「申し上げます……! 洛華(らくか)の街で暴動が発生し、陰家の邸宅が襲撃されました!」




ドサリと床に膝をつく音。陛下の体が弾かれたように起き上がり、冷たい空気が寝台へと流れ込む。私は陽を抱きしめたまま、凍りついたように息を止めた。

暴動? 陰家が? 言葉の意味が思考の輪郭を結ぶよりも早く、頭の中が真っ白に染まり、胸の奥が目に見えない冷たい手で鷲掴みにされたように激しく軋む。




「被害は! 義母上達はどうなった!」




空気を震わせる怒号に、平伏した伝令の肩が激しく震えるのが暗がりでも分かった。




「それが……暴徒どもの凶刃により、鄧貞(トウ テイ)様と、陰歆(イン キン)様が……落命されました。屋敷も、全焼の模様にございます……っ」




――落命。

その二文字が耳の奥に突き刺さった瞬間、視界から色彩が完全に抜け落ちた。

伝令の震える唇の動きがひどく緩慢に見え、火桶の中で爆ぜる炭の音も、傍らにいるはずの陛下の荒い呼吸も、まるで分厚い水底に沈んだように遠退いていく。


父の遺した教えを胸に、誰よりも気高く生き抜いてきた母の凛とした横顔が。

権力とは無縁の場所で、古い竹簡の匂いを何よりも愛していた優しい弟の笑顔が。

二度と、私の名前を呼んでくれないというのか。


嘘だ。嘘に決まっている。




「鸞(ルァン)! 鸞、しっかりしろ!」




大きくて温かい手が私の肩を掴み、強く揺さぶる。

だが、その焦燥に満ちた声すらも凍りついた鼓膜を滑り落ちていくばかりだ。指先から急速に体温が奪われ、全身の血が鋭い氷の刃となって血管を内側から突き破るような感覚が五体を支配する。




(どうして? なぜ、母上たちが殺されなければならなかったの?)




どうして。なぜ。

頭の中で虚しく反響するその問いの答えは、誰に教えられるまでもなく、私自身が一番よくわかっていた。


私が、ただの『貴人』という半端な立場に甘んじていたからだ。

あの時、彼の方を政争から守るためなどと綺麗事を並べ、正妻である皇后の座を辞退などしなければ。天下の母として毅然と立ち、実家である陰家を堂々と庇護していれば、誰も母や弟を侮り、いわれのない悪意の刃を向けることなどできなかったはずなのだ。


いや、違う。そもそも、あの日、洛華に留まることを固辞し、側室になどならなければよかった。

そうすれば、家族をこのドロドロとした都へ呼び寄せることもなく、故郷の温かな陽だまりの中で、みな穏やかに生きていけたはずなのに。


叶わぬ夢と知りながらも、どうしてもあの温かな手を振り払うことができなかった。ちっぽけな誇りを盾にして、ただほんの少しだけ傍にいたかったのだ。その身勝手な執着の代償として、私は最も守るべき愛する家族を、自らの手で死地へ突き落としてしまった。


圧倒的な罪悪感と自己嫌悪が、真っ黒な泥の津波となって頭の上から容赦なく襲いかかってくる。




(ごめんなさい。母上、歆。ごめんなさい……っ!)




狂おしいほどの謝罪を叫ぼうと、震える唇を大きく見開いた。

だが、絶望的なまでのショックに耐えきれず、喉の筋肉は石のように硬く強張ってしまっている。いくら肺から空気を押し出そうとしても、音にならない。

言葉が出てこない恐怖に駆られ、無意識のうちに己の爪を立てて白く細い首筋を激しく掻き毟る。皮膚が破れ、生温かい血がじわりと滲んだ。


ひゅっ、ひゅっ。

掠れた空気が、細く縮み上がった管を無理やり通り抜けるような乾いた音だけが漏れる。

言葉にならない慟哭が喉の奥でつっかえ、肺の空気が急速に奪われていく。息ができない。苦しい。苦しい。

激しく喘ぎながら、胸を掻き抱いた。




「鸞! やめろ、自分を傷つけるな! 俺を見ろ!」




悲痛な叫び声が響き、首を掻き毟っていた両手首が、太く逞しい指によって強い力で押さえつけられる。

熱い胸板に力強く抱き寄せられ、耳元で必死に何かが語りかけられている。だが、その切実な響きすらも意味を持たない音の羅列となって、暗い水底へと沈みゆく意識の表面をただ空しく滑り落ちていった。


ひゅっ、はぁっ……。

肺が完全に空っぽになり、引き裂かれるような喉の痛みと共に、視界の端からじわじわと暗闇が浸食してくる。

薄れゆく意識のなかで最後に見えたのは、彫りの深い顔を歪め、大粒の滴を零しながら、決して届かない声で何かを叫んでいる陛下の顔だった。


プツリ、と。

私の中で、何かが決定的に切れる音がした。

次の瞬間、体は糸の切れた操り人形のように力なく崩れ落ち、一切の光が届かない深い絶望の底へと落ちていった。




◆◇◆




腕の中で、愛しい女の体が崩れ落ちた。

俺は震える腕でその羽根のように軽い体を抱きとめ、乱れた真紅の寝台の上へとそっと横たえる。白磁のような頬は血の気を失い、酸素を求めてあえいでいた唇は青白く閉じられている。白く細い首筋には、彼女自身が爪で掻き毟った痛々しい赤い引っ掻き傷が、血を滲ませて残っていた。




「鸞……」




すっかり冷たくなってしまった細い指を両手で包み込み、俺は己の額をそこに押し当てた。

胸の奥底を、血を吐くような後悔がズタズタに切り裂いていく。


俺が、彼女を壊したのだ。

ただ一つ大切にしていた清らかな誓いを奪い去り、己の狂気じみた執着だけでこの血塗られた檻へと力ずくで縛り付けたのは俺だ。政争の矢面に立たせないためだと身勝手な言い訳を並べ、半端な立場のまま、ただ己の渇きを癒やすように過剰な熱ばかりを注ぎ続けた。

その歪な偏愛が、欲深き渭北(いほく)の獣どもの嫉妬を業火のごとく煽り立てたのだ。結果として彼女の拠り所を侮らせ、最も純粋で善良な家族の命を無惨に奪い去るという最悪の惨劇を引き起こしてしまった。




(俺の愛が……お前から家族を奪ってしまった)




どれほど悔やんでも、こぼれ落ちた命は戻らない。心に刻まれた致命的な傷が癒えることもないだろう。

だが、ここで立ち止まって絶望の泥に浸る権利など、今の俺にはない。


重厚な扉の向こう側から、甲冑が擦れる微かな音が聞こえてくる。洛華の街で燃え広がる暴動を鎮圧し、首謀者を拘束するため、耿敦(コウ トン)をはじめとする側近たちが皇帝たる俺の指揮を待っている。


冷たい指先に唇を寄せると、その青白く美しい額に一度だけ深く祈るように口づけを落とした。




「……待っていてくれ、鸞。お前をこんな目に遭わせたものを、俺がこの手で完全に粉砕してやる」




寝台の分厚い帳を静かに下ろし、愛する妻の姿を外界の光から完全に隠す。

ゆっくりと立ち上がった瞬間、心の底で燃え盛っていた悲哀や胸を引き裂くような痛みのすべてが、完全に凍りついて削げ落ちていく。


扉を押し開け、冷たい風が吹き込む回廊へと足を踏み出した。

もはや視界に一寸の迷いも慈悲も映らない。この瞳に宿っているのは、愛する者の魂を壊されたことへの絶対的な憎悪と、すべてを噛み砕くための冷酷な殺意だけだ。


ザァァ、と。暗い中庭に、冷たい夜雨が降り始めていた。




「必ず、すべての者に血の代償を支払わせる」




誰に聞かせるでもなく低く呟き、重く決然とした軍靴の音を響かせながら、夜の闇に沈む軍議の場へと一度も振り返ることなく歩み出した。




◆◇◆




陛下が軍議のために夜の闇へ去られてから数刻。白み始めた空とは裏腹に、後宮はどんよりとした不気味な熱気と、噎せ返るような香油の匂いに包まれていた。

陰貴人様がお倒れになったらしい。

そんな噂は、足を持った妖のようにまたたく間に私たちの間を駆け巡った。




「ねえ、お聞きになりまして? 昨夜、洛華の街で暴動があって、陰家の奥方様と若君が惨殺されたそうですわ」




「ええ……それで、報せを聞いた貴人様は一言も声を出せないまま、ご自身の喉から血が滲むほど掻き毟って昏倒されたとか……」




「ああ、おそろしい。無念の死を遂げたご家族の怨念が、あの宮に這い込んできたのに違いありませんわ。怨霊に取り憑かれてしまわれたのよ」




回廊の物陰に集まった私たちは、誰からともなくヒソヒソと囁き合う。

分厚い帳が下ろされ、一切の光を拒絶している西の宮。あの中にいる美しい寵妃の暗い不幸を、誰もが表面上は同情してみせながら、心の底で蠢く醜い好奇心と安堵を隠しきれずに消費している。

「呪いだ」「穢れだ」と囁き合い、誰もあの閉ざされた『失語の檻』に近づこうとはしない。後宮とは、寵愛を失い、不可解な病に伏した女にはどこまでも冷酷な場所なのだ。


私たちが怯えと好奇の入り混じった視線を向けていると、ふいに澄んだ空気を切り裂くような静かな足音が回廊に響いた。




「そこを退きなさい」




低く、だが決して逆らうことのできない威厳を秘めた声に、私たちは弾かれたように道を開ける。

歩みを進めてきたのは、太医令(たいいれい)だった。

背筋をすっと伸ばした長身痩躯。白髪交じりの髪をきっちりと冠でまとめ、清潔な官服を纏ったその姿は、このドロドロとした愛憎の渦巻く後宮にあって、ひどく浮世離れして見える。彼が通り過ぎた跡には、清冽な緑茶と、かすかな煎じ薬の香りがすっと漂った。


息を呑んで見つめる。

呪いだ、穢れだと誰もが恐れて遠巻きにしているその扉へ、彼はざわめく私たちを一瞥もすることなく、ただ真っ直ぐに向かっていく。

そして迷うことなく、重い扉に手をかけた。


ギィィ、と。

扉が開き、太医令の背中が、光の届かない失語の檻の奥へと静かに吸い込まれていった。

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また明日19:00にお会いしましょう!

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