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【完結】比翼の乱世:老虎と鸞鳥の契り  作者: 深山 凛
◆第四章◆

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第65話

洛華(らくか)の中心に位置する陰家の邸宅。

日が落ちて冷え込みが増す中、食堂には温かな汁物の白い湯気が立ち上り、質素だが心を込めて作られた夕食が並ぶ。




「……兄上も義姉上も不在だと、やはり少し食卓が広く感じますね」




椀の表面から伝わる微かな熱を両掌で確かめながら、卓を挟んだ母へと微笑みかけた。

兄は今夜、都の有力者たちが集う夜会に招かれており屋敷を空けている。義姉に至っては、昨秋から実母の看病のため故郷の南苑州(なんえんしゅう)へと里帰りしていた。




「ええ。ですが、春華もそろそろ看病の目処が立って戻ってこられる頃合いでしょうし、識も明日の朝には顔を見せるでしょう」




母は穏やかな目元を細め、姿勢を真っ直ぐに保ったまま静かに箸を動かしている。




「それにしても、都の暮らしにも随分と慣れましたね。鸞(ルァン)も、寧も、健やかに過ごしているかしら……」




「ええ。寧姉(ネイお姉)様には、子供たちに文字を教えるために何度かお会いしていますが、とても元気そうでしたよ。姉上も寧姉様も、この洛華の空の下にいるのです。きっと、同じように平穏な夜を過ごしているはずですよ」




母を安心させるように力強く頷いてみせると、目尻にわずかな安堵の皺が寄った。




夕食を終えて自室に戻り、昼間に街の書肆で若き宰相からお借りした貴重な古書を机の上にそっと広げる。

使い込まれた竹簡のひんやりとした手触りと、そこから微かに立ち上る埃っぽい古い墨の匂い。灯されたランプの柔らかな光のなかで、静かな学問の時間へと深く没頭していく。


ザクッ、ザクッ。

窓の外からは、いつものように屋敷の周囲を隙間なく巡回する、近衛兵たちの鎧が擦れる金属音と重い足音が絶え間なく聞こえてくる。




(ああ……今日も、平和な夜だ)




日課である日記帳を引き寄せ、ゆっくりと筆を走らせる。




だが、その静かな夜の帳は突如として引き裂かれた。


バァァンッ、という地響きのような轟音。重厚な門扉が乱暴に叩き壊される音に、思わず握っていた筆を取り落とす。広げた紙の上に黒々と墨が飛び散った。




「……何事だ?」




窓枠に手をかけ外に目をやると、真っ暗だったはずの庭に無数の赤い松明の炎が不気味に揺らめいている。いつも絶えず聞こえていたはずの兵士たちの規則正しい足音は、いつの間にか完全に消え失せていた。

ただ響き渡るのは、耳を劈くような怒号と金属がぶつかり合う凄惨な音。そして、屋敷を守ってくれていたはずの屈強な兵士たちの断末魔だった。




「どういうことだ……? なぜ、護衛たちが……っ」




冷や汗が背筋を滑り落ちる。

パチパチという音と共に、焦げ臭い煙の匂いが窓の隙間から鼻腔を激しく突いた。屋敷のどこかに火が放たれたのだ。

その瞬間、全身の血が凍りつく。




「母上……っ!」




反射的に、昼間に借りたばかりの貴重な竹簡を胸に強く抱きかかえて自室を飛び出した。

だが、廊下に出た僕の目に飛び込んできたのは、理解の範疇を完全に超えた地獄絵図だった。


屋敷に押し入ってきたのは、訓練された軍隊でもただの盗賊でもない。泥にまみれたボロボロの衣を着た、見知らぬ洛華の市井の民衆たちだ。

彼らは飢えと異常な熱気に血走った獣のような目で屋敷中の調度品を乱暴に物色し、逃げ惑う使用人たちに向かって手にした手斧や薪割りの鈍器を無慈悲に振り下ろしている。




「金はどこに隠してやがる!」




「民の血を啜る国賊どもめ!」




飛び散る生温かい血飛沫と、調度品が砕け散る鈍い破壊音。浴びせられる底知れぬ憎悪に満ちた怒声は、到底理解できるものではなかった。

なぜ、これほどまでに怨嗟の目を向けられなければならないのか。いつ僕たちが民を虐げ、富を貪ったというのか。

圧倒的な理不尽の前に思考は断絶し、極限の混乱と恐怖に呑み込まれそうになりながらも、ただ母上の安否だけを胸に、むせ返る煙のなかを無我夢中で駆け抜けていく。


火の粉が舞う渡り廊下の角を曲がったところで、見慣れた人影を見つける。




「母上……っ!」




「歆、こちらへ来なさい!」




揺らめく炎の明かりに照らされた母上の姿は、悲鳴を上げて逃げ惑う人々の中で異質なほどに静まり返っている。乱れた髪一つなく、その瞳には一寸の揺らぎも恐怖も宿っていない。ただ凛と背筋を伸ばし、嵐の中で微動だにしない巨木のようにそこに立っていた。

母上の元へ駆け寄ろうと床を蹴った、まさにその時だった。




「見つけたぞ! この屋敷の女主人だ!」




血走った目をした暴徒の一人が、重い手斧を振りかざして前に立ち塞がる。饐えた酒の臭気と脂ぎった体臭が、焦げ臭い煙に混じって鼻を突いた。




「さあ、隠している金銀財宝を出せ! 俺たちの血税で贅沢三昧しやがって、この悪女め!」




男が吐き出す言葉は、どれも理解の及ばないものばかりだった。贅沢など、一度としてしたことはない。目立つことなく、常に己を戒め、息を潜めるようにして慎ましく生きてきたはずなのに。

男の腕の筋肉が隆起し、凶器が頭上高く振り上げられる。その瞬間、僕は恐怖でガタガタと震える両足に無理やり力を込め、母上の前に飛び出した。

胸に抱いたままの竹簡を、まるで役に立たない盾のように両手で強く握りしめ、力の限り叫ぶ。




「母上、下がって! ……やめろ! ここには貴方たちが探しているような金なんてない! うわあぁぁぁッ!!」




振り下ろされる刃の冷たい軌跡。

目を強く瞑った。だが、骨を断つはずの痛みはいつまで経っても体を切り裂かない。

代わりに聞こえたのは、ドスッという、刃が分厚い肉と骨を無惨に砕く重く鈍い音。




「……っ、あ……」




頬に、生温かい水滴がばしゃりと降り注いだ。濃密な鉄の匂いが鼻を覆い尽くす。

ゆっくりと目を開けた視界を埋め尽くしたのは、僕を覆い隠すようにして前に立ち塞がり、その背中に手斧の刃を深々と突き立てられた母上の姿だった。




「母……上……?」




「歆……! ダメよ、下がっていなさい……!」




母上は口からどす黒い血の塊を吐き出しながらも、僕の上に崩れ落ちるようにして倒れ込んだ。その両手は、息子を最後まで守り抜こうとするかのように背中を力強く抱きしめている。


「この期に及んで命乞いもせぬか」と下劣な嘲笑が降り注ぐ。それでも、僕の肩に預けられた母上の体は微かな震えすら見せず、浅い息遣いの中には命を惜しむような惨めな響きなど欠片も混じってはいなかった。

急速に光を失っていく瞳の先で、燃え盛る洛華の夜空の彼方を見つめているようだった。




「……ああ、あなたたちは……どうか、幸せに……」




それが、陰家を守り抜いた気高き母の、最期の言葉だった。




「あ、あああ……母上ッ!」




喉から、声にもならない慟哭が引き裂かれるように溢れ出した。だが、その絶望の叫びすら最後まで響くことは許されなかった。

背後から迫った別の暴徒の刃が、無防備な背中を情け容赦なく深く貫いたからだ。


冷たい鉄が腹を突き破る圧倒的な熱さと、口の中に込み上げる生臭い血の味。世界が急速に色を失い、敬愛する母の温もりごと血の海と化した床へと崩れ落ちてゆく。


腹を貫かれた強烈な激痛が全身の神経を焼き焦がしたのも束の間、意識は急速に暗い水底へと沈んでいく。


僕を庇うようにして折り重なる体はすでに命の脈動を止め、ただ静かにその熱を失おうとしている。

ピクリとも動かなくなった背中に腕を回しながら、薄れゆく視界と聴覚の中でただ呆然としていた。




「やったぞ! ここに金目の物がある!」




「民の血税を取り戻したんだ! 悪女の実家に、正義の鉄槌を下してやったぞ!」




煙に巻かれた廊下に、悍ましくも熱狂的な歓声が反響する。

彼らは略奪したささやかな香炉や掛け軸を高く掲げ、互いの肩を叩き合って狂喜乱舞していた。

振り上げられた腕は泥に汚れ、身に纏う衣は酷く擦り切れている。彼らは根っからの悪鬼などではなく、明日の糧すら得られず、行き場のない怒りを誰かにぶつけることでしか生を実感できない洛華の市井の民たちなのだ。




(どうして……こんな理不尽が、許されていいはずがない……)




気管から血の泡を吐き出しながら、胸の奥で絶望が渦を巻く。

僕たち家族は、決して権力に驕ることなく、ただ質素に身を寄せ合って生きてきた。姉上だって、誰からも愛される優しい人なのに。なぜ、こんな汚名を着せられ、見ず知らずの人々に憎まれながら、踏みにじられなければならないのか。


パチパチ、と。

家屋の柱を舐め尽くす紅蓮の炎が、すぐそこまで迫り来る音がした。

燃え盛る熱風が床を這い、僕と母上の体を黒い煙ごと包み込もうとしている。


視界が完全に黒く塗り潰されていくなか、最後の力を振り絞って家族の顔を思い浮かべた。




(……哥(兄さん)……姉様を、どうか一人にしないで……)




それを最後に、僕の意識は永遠の闇へと落ちていった。


轟々と燃え落ちる陰家の屋敷。空を焦がす炎の赤と、最も善良な者たちの血を啜った暴徒たちが上げる狂声だけが、いつまでも、いつまでも絶望の夜に響き渡っていた。

最後まで読んでいただきありがとうございます!


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また明日19:00にお会いしましょう!

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