第64話
凍てつく夜気が、洛華の宮城を無音で撫でていく。
昼間の絢爛が嘘のように静まり返った後宮の最奥。陽の差さない回廊の物陰で、分厚い白粉を叩いた肌が暗闇に白く浮き上がっている。大長秋は上質な絹の官服が擦れ合う微かな音を立て、待ち合わせていた御史中丞へと身を寄せた。
「……お待ちしておりましたよ、謝延殿」
賈謐の唇が、三日月の形にねっとりと歪む。その体から立ち昇る人工的な麝香の匂いが、冷たい夜気に不快な澱みを作った。
悪徳宦官は懐に手を入れると、小さく折り畳まれた紙片を取り出し、闇に溶け込ませるように謝延の胸元へと押し付ける。
「これは……?」
「宰相殿から、密かに託されたもの。都の片隅にある、あの過保護な『鳥籠』の図面にございます。ご丁寧にも、番犬どもの気が緩む刻限まで記されておりますよ」
謝延の喉から、ヒュッと短い息が漏れる。
二人の間に満ちているのは、共通の焦燥と仄暗い熱だ。
謝美人が皇子や皇女を産み、皇后がさらなる皇子を産もうとも、帝の視線はただ一つの宮にしか注がれない。挙句の果てに、皇后の失態を口実に、夜の差配という後宮最大の権限までもがこの宦官の手からむしり取られてしまったのだ。
「……あの目障りな南の鳥さえ籠から落ちれば、再び我らの世が戻る。そうでしょう、謝延殿?」
「ああ……。我が娘と孫のゆく道を、あのような鳥に塞がれてなるものか」
謝延が小太りの腹を揺らし、ギリッと奥歯を鳴らす。賈謐はさらに顔を寄せ、極上の毒を孕んだ息を共犯者の耳元へ吹き込んだ。
「ご自身の手を汚してはなりませぬよ、謝延殿」
「逆手に取る、とは?」
「市井の腹の虫を、少しばかり鳴らしてやるのです。『なぜ、あそこだけが武具を持った番犬に厳重に守られているのか』……とね」
御史中丞の小さな目が、暗闇の中ではっと見開かれる。
「あの白き鳥は、天下の国母たる皇后様を蔑ろにし、後宮の奥で贅沢三昧をしている……。その噂を、街のごろつきの耳に落としてやるのです。愚民どもに、鳥籠の中にある金の卵を取る正当な大義名分を与えてやるのですよ」
額に、じわりと脂汗が滲む。躊躇いと、それ以上の凄絶な計算が、男の顔の筋肉をヒクヒクと動かしていた。
宰相の覚えを良くし、娘の足場を盤石にするためには、誰かがこの泥を被らねばならない。
「……相分かった」
喉の奥から、地の底を這うような低い声が漏れる。
「宰相殿への忠誠の証、そして何より、我が娘の明日を確固たるものにするため……この汚れ役、私が引き受けよう。街の裏道に潜む飢えた獣どもを放ち、あの忌々しい鳥の塒を跡形もなく食い破らせてやる」
賈謐は満足げに目を細め、分厚い化粧の奥で嗜虐的な悦びに口角を吊り上げた。
◆◇◆
深夜の洛華の市井。華やかな宮城から遠く離れた裏路地には、饐えた酒と獣脂の匂いが冷たい泥濘にへばりついている。
黒衣に身を包み、鼻を覆うように布を巻いた謝延は、足元の汚泥を忌々しく避けながら、崩れかけの粗末な小屋の奥へと足を踏み入れた。
「……話はついているな」
暗がりの中、荒くれ者や盗賊どもを束ねる頭目が、濁った目をぎらつかせて待ち構えていた。
吐き気を催すほどの悪臭に顔をしかめるのを必死に抑え、御史中丞は懐からずっしりと重い革袋を引きずり出す。無造作に足元の土間へ放り投げると、中身の金貨が擦れ合い、ジャラリと鈍く暴力的な音を立てた。
「前金だ」
「へへっ……こいつは気前がいい。で、俺たちは何をすりゃあいいんで?」
革袋の紐を解き、黄金の輝きを確かめた頭目の顔が、貪欲な獣そのものに変わる。このような下賤な輩と同じ空気を吸うことすら屈辱だが、すべては盤面をひっくり返すための布石。
「近頃、都の片隅に、不釣り合いなほど物々しい警備が敷かれている屋敷があるだろう」
「ああ、知ってまさぁ。近寄るだけで睨まれる、気味の悪ぃお屋敷でしょう」
「あの中には、飢えたお前たちが一生遊んで暮らせるほどの金銀財宝が山のように隠されている。民の血肉を啜り、搾取した富がな。……それを、街のならず者どもに教えてやれ」
大義名分を与えられ、男の口の端が三日月のように吊り上がる。
「番犬どもの気が緩むのは、夕刻の交代時だ。そこを突け」
「財宝は、俺たちが好きにして構わねえと?」
「ああ。すべてくれてやる。……だが、条件が一つある」
黒衣の奥で目を細め、言葉一つひとつに氷のような殺意を込めて囁く。
「塒の中にいる奴らは、一人たりとも生かしてはおくな。残らず、確実に首を折れ」
酒の臭気に混じって、暗がりから獰猛な笑い声が漏れ出た。
◆◇◆
翌日の日暮れ。洛華の街を見下ろせる安全な楼閣から、謝延は冷えた杯を片手に眼下の景色を見つめていた。
空が血を流したように赤く染まり、やがて紫暗の夜気が都の輪郭を塗り潰し始める。
その夕闇の底で、燻っていた市井の不満が、放たれた一滴の劇薬によって異様な熱を帯びていくのを肌で感じた。
薄暗い路地の奥から、赤い松明の炎が一つ、また一つと灯り始める。
最初は小さな火種にすぎなかったものが、やがて蠢くような一本の炎の川となり、洛華の片隅へと音もなく流れ出していく。
向かう先はただ一つ。あの忌々しい鳥の群れが匿われている、不釣り合いに厳重な塒だ。
(そうだ。行け、飢えた獣どもよ。その怒りのすべてを、あの女と一族にぶつけるのだ)
番犬たちの交代の刻限。張り詰めていた守りの糸が一瞬だけ弛む、そのわずかな隙。
手斧や鈍器、燃え盛る松明を握りしめたどす黒い暴徒の群れが、足音を殺して陰家の門前へと迫る様子が、遠目にもはっきりと分かった。
「……これで終わる。すべては、あるべき正当な姿に戻るのだ」
冷酒を喉の奥へと流し込み、口元を歪める。
自らの娘と孫こそが、天下の中心に立つべき存在。あの目障りな水鳥の羽さえむしり取れば、帝の視線も権力も、すべては再び我らの手の中に返ってくるはずだ。
楼閣を吹き抜ける風が、松明の煙の匂いを微かに運んできた。
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