第63話
洛華の中心に位置する陰家の邸宅は、息が詰まるほどの重苦しい静寂と冷え切った空気に沈み込んでいる。
自室の窓枠に手をかけ、少しだけ隙間を開けた。すると、屋敷の周囲を隙間なく巡回する屈強な近衛兵たちの鎧が擦れる乾いた音が、ひっきりなしに耳を打ってくる。
「寧姉様や母上と共に、こうして都へ呼んでいただけたのは喜ばしいことですが……陛下も、少々心配性が過ぎますね」
苦笑交じりに呟きながら、目の前の母――鄧貞が淹れてくれた温かな茶を啜る。
「これではまるで鳥籠です。外の兵士たちを見るたびに、かえって市井の人々の耳目を集めてしまっている気がしてなりませんよ」
「歆。言葉を慎みなさい」
母はぴしゃりと苦言を呈し、茶杯を静かに置く。
「私たちは陰家の者。教えを忘れてはなりません。陛下がここまで重々しい警備を敷いてくださるのは、後宮におられる鸞と、そして我ら陰家を気遣っての特別なお心止め。決して不満を漏らしてはなりませんよ」
「はい、母上。わかっております」
素直に頷き、小さく頭を下げる。
厳しい言葉の裏にあるのは、後宮という過酷な舞台で一人戦い続ける姉への深い愛情。そしてこの息の詰まるような厳重な警備もまた、陛下が不器用ながらも必死に我ら家族を守ろうとしてくださる証なのだと、頭では理解しているつもりだ。
茶の時間を終えて自室に戻り、長年つけている日記帳を開く。
古い頁をめくれば、かつて晶陵で過ごした穏やかな日々の記憶が色褪せることなく残されていた。
僕にとって、天下の覇王と畏れられるその人は決して遠い存在などではなかった。書物の面白さを教え、永安で学んだことを惜しげもなく語ってくれた、知性と優しさに溢れる義兄だった。
懐かしい思い出を振り返りながらも、後ろ髪を引かれる思いで日記を閉じる。
今日は新たな見識を広めるべく、数人の護衛を伴って洛華の街に店を構える馴染みの書房へと出かける予定であった。
街の喧騒を抜け、ひんやりとした静かな書物屋へと足を踏み入れる。外では厳めしい護衛たちが周囲に目を光らせているせいで、店内に他の客の姿はない。古い紙と墨の静かな匂いだけが、冷たい空気の中に漂っている。
棚に並ぶ竹簡を夢中で眺めていると、その静寂のなかでふわりと上質な香木の香りが鼻腔をくすぐった。
「……おや、それは前朝の思想録ですね。この洛華の片隅で、そのような稀覯本に目を留める方がいらっしゃるとは」
背後から掛けられたのは、水琴窟の音のように涼やかで洗練された声。
驚いて振り返ると、そこには白磁のように透き通る肌を持った絶世の美青年が静かに微笑を浮かべて立っていた。
最新の流行を取り入れた滑らかな絹衣に、一切の隙もない優雅な立ち振る舞い。薄暗い書物の海に紛れ込んだ『歩く宝石』のようなその姿に、思わず息を呑む。
「もしかして……宰相、郭況様、であらせられますか?」
「お忍びで本を探しに来たただの書虫ですよ。ここでは、地位などという無粋なものは忘れていただきたい」
当代きっての文官の頂点であり、天下の誰もが知る天才。僕のような一介の学徒にとって、宰相は竹簡の中にしか存在しない生ける伝説そのものだ。
その高貴な御方が、気さくに声をかけてくださったのである。
高名な文官は店外に立つ厳めしい護衛の存在など気にも留めない様子で隣に並び、手にした書物を覗き込んでくる。そして、そこに記された古代の法理について、流れるように、それでいて押し付けがましさの欠片もない洗練された言葉で語り始めた。
「ここの解釈は、君の地元の学派ではどう捉えられているのか、聞いても良いかな……?」
「あ、はい……っ! 故郷の師は、これを天の理ではなく、人の情として読み解いておりました。すなわち……」
最初は畏れ多くて声が震えたものの、真摯に耳を傾けてくれるおかげで夢中になって言葉を紡いでゆく。拙い見解に対しても決して嘲笑うことなく、さらに深く高尚な知見をもって応えてくれた。
(これほどの知性を持つ方が、一介の学徒である僕に、ここまで時間を割いてくださるとは)
知識をひけらかすことのない、どこまでも優雅で謙虚な振る舞い。
心が震えるような感動が、胸の奥から熱く湧き上がってくる。
姉上が後宮でどれほどの権力闘争に巻き込まれているのか。政治の裏側にどんな泥が渦巻いているのか。都の闇を知らない身には想像することもできない。
ただ目の前にいる真の賢人が放つ眩いほどの優しさと圧倒的な知性にすっかり魅了され、僕は深く心酔していった。
時を忘れて語り合い、ふと気づけば、書物屋の窓辺を沈みゆく夕陽が赤く染め始めている。
郭況様は天を仰ぎ、柔らかな笑みを浮かべた。
「名残惜しいですが、そろそろ刻限のようです」
「あ……はい。私のような学徒の長話に付き合っていただき、本当にありがとうございました」
深々と頭を下げる僕に、どこからか一冊の古びた書物を取り出し、すっと差し出してくる。
「これは……?」
「先ほどお話しした、前朝の思想録です。君のような熱心で純粋な学徒にこそ、この書は相応しい。どうか、持ち帰ってじっくりと読んでみてください」
「そ、そんな貴重なものを! 私がお借りするわけには……っ」
「構いませんよ。知識は、求める者の元にあってこそ輝くのですから」
神仏のごとき慈愛に満ちた微笑みに、思わず言葉を失う。
筆を握り続けたことで硬くなった指先の筆だこを微かに震わせながら、両手でその書物をうやうやしく受け取った。手渡された古い竹簡のずっしりとした重みと、埃っぽい墨の匂い。感動で心臓が早鐘のように鳴り響き、視界がじんわりと熱く潤んでいくのが分かる。
「ありがとうございます……っ。このご恩は、生涯忘れません」
涙ぐむ僕を見て、生ける伝説はさらに優しく目を細めた。
「それにしても……外の護衛たちは、ずいぶんと物々しいですね。君のような若者が洛華の街を満喫するには、少し息が詰まるのではありませんか?」
その温かな労いの言葉は、心の最も無防備な場所へ、春の風のようにすんなりと入り込んできた。
「ええ……。実は、母とも『まるで鳥籠だ』と申しておりまして。もちろん、陛下からの特別なお心遣いだと感謝してはいるのですが、やはり少々窮屈に感じることもありまして。兵士の皆様も昼夜問わずご苦労さまなのですが、夕刻の交代の刻限ばかりは、どうしても少し気が緩むようです。ですから、こうして街の空気を吸いに出るのは、いつもこの時間帯と決めているのです」
「ほう、なるほど。それは賢明な息抜きですね」
「はい。母たちにも、この新しい書の匂いを早く届けてやりたいと思います。私たちには、こうしたささやかな喜びが一番の薬なのです」
語る言葉を、ただ静かに、優雅な微笑みを浮かべたまま聞いてくださった。
「……ええ。本当に、素晴らしいご家族だ。どうか、これからもその『ささやかな喜び』を大切になさってくださいね」
それだけ言い残すと、店外の護衛たちに一瞥もくれることなく、夕闇の迫る街へと静かに消えていく。美しい後ろ姿をいつまでも見送りながら、僕は予期せぬ幸運な出会いに密かに胸を熱くしていた。
◆◇◆
洛華の夜の冷気が、馬車の窓の隙間から忍び込んでくる。
書物屋を離れ、石畳を軋ませながら進む薄暗い車内で、私はゆっくりと口元を覆っていた袖を下ろした。
先ほどまで顔に張り付いていた柔らかな微笑みは、もはやどこにもない。そこにあるのは、感情という熱を一切持たない、硝子細工のように冷徹な瞳だけだ。
「……古びた竹簡の束一つで、己の家の番犬の隙を嬉々として差し出すとは。実に扱いやすい……」
誰もいない車内に、低く冷たい嘲笑が滑り落ちる。
あの純粋で疑うことを知らない青年は、後宮で息を潜める姉にそっくりな、酷く脆く澄んだ琥珀色の瞳をしてこちらを見つめていた。
無邪気に語られた言葉の数々が、頭の中で極上の劇薬へと姿を変え、確実な方策として構築されてゆく。
あの一族がどれほど謙虚に息を潜めようとも、あの物々しい警備の存在自体が、洛華の市井の民にとっては異様に映っているのだ。そこに『民の血税を吸い上げ、贅沢三昧をしている』という噂の火種を一つ落としてやれば、果たしてどうなるのか……。
「……質素でささやかな喜び、ですか。ええ……とても……素晴らしい」
今頃、あの愚かな若者は与えられた餌を後生大事に抱えて読み耽っているに違いない。
車輪が石畳を軋ませる冷たい音が、外界の深い闇へと吸い込まれていく。私の手の中で、破滅の刃はすでに静かに研ぎ澄まされていた――。
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