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【完結】比翼の乱世:老虎と鸞鳥の契り  作者: 深山 凛
◆第四章◆

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第62話

夕闇が迫る南宮の執務室。硬い竹簡の文字を無機質に追いながらも、胸の内は西の宮で身を寄せ合う愛しい母子の温もりだけで満たされていた。

陽(ヨウ)の柔らかな産着の手触り。そして、手をすり抜けていったとはいえ指先に残る妻の白磁のような肌の記憶。どんなに分厚い氷の壁を築かれようとも、二人の存在だけがこの殺伐とした修羅の世界に息継ぎを許してくれる唯一の光であった。


だが、その神聖な余韻は、無作法に開き放たれた重厚な扉の衝撃音によって無惨に引き裂かれる。




「退きなさい! 天下の国母たる私を、誰だと思っているのです!」




近侍たちの制止を振り切り、大理石の床を荒々しく踏み鳴らして駆け込んで来たのは皇后だった。

動くたびに身に纏った大量の金装飾がジャラジャラと耳障りな音を立て、濃厚で甘ったるい麝香の香油の匂いがどっと室内に雪崩れ込んでくる。胃の底を掻き回すようなその悪臭が、執務室の澄んだ冷気をひどく不快に濁らせていった。


静かに筆を置き、ゆっくりと顔を上げる。

そこには怒りと焦燥に顔を引きつらせ、血走った目でこちらを睨みつける女が立っていた。だが、心には微塵の波風も立たない。ただ路傍の石ころを見るような、万物を凍らせる静寂だけがあった。




「……何用だ、皇后」




大理石の床を這うような低い声に、肩がビクリと跳ねる。女は強張った表情のまま床に膝をつき、極彩色の絹衣の裾を握りしめながら絞り出すように声を上げた。




「陛下……どうか、どうか私の願いをお聞き届けくださいませ」




ぽろぽろと大粒の涙をこぼしながら、すがるように顔を上げる。




「この度、陰貴人(イン ルァン)も無事に皇子をお産みになられました。これで、我が国の皇統は盤石なものとなりました。ですから……どうか、後宮の平穏と、朝廷を支える者たちの心を安んじるためにも、私や他妃への御渡りを再開していただきたく存じます……っ」




涙ながらのいじらしい懇願。

だが、涙で濡らした言葉の裏に張り付く醜悪な本性など、とうに透けて見えている。

『後宮の平穏』だと? 『朝廷を支える者たちの心を安んじる』だと? 笑止千万だ。


正妻でありながら夜の差配から外され、実家である渭北(いほく)の権力が削がれていく焦燥。最愛の妻へ向かう俺の関心を奪い返そうとする、業火のごとき嫉妬。己の虚栄の冠を守り抜くための、吐き気を催すほどに浅ましい大義名分でしかない。

冷え切った大理石の床に涙をこぼし、必死に取り繕った建前を並べ立てる女を前にしても、鼓動は一拍たりとも乱れることはなかった。




「皇統はすでに十分にある。不要だ」




抑揚のない声で短く撥ね退け、再び視線を卓上の木簡へと落とす。

だが、ここで引き下がれば後宮における己の権力が完全に失墜すると悟っているのだろう。さらに身を乗り出し、すがるように声を振り絞ってくる。




「陛下……っ! 茶会における不始末は、重々承知しております。私があの者たちを甘やかしたばかりに、陛下のお心を煩わせてしまいました……。ですが、深く反省しております! 今後は心を入れ替え、天下の母として後宮の法理に則り、一寸の乱れもなく厳格に管理いたしますゆえ……どうか、お慈悲を!」




その言葉が堂内に響いた瞬間、手の中で筆がピタリと止まった。


愛憎に塗れた女の浅ましい意地などどうでもいい。俺が求めているのは、この欲深き渭北の獣たちから一切の牙を奪い去り、最愛の妻だけを安全に愛し抜くための徹底して排他的な政治環境の構築のみだ。

眼前の女が自ら露呈した管理の不手際と、今しがた口走った『反省』という都合の良い言質。これを逆手に取れば、後宮の寝所を我が物顔で差配し、密かに兵糧攻めを行っていたあの悪徳宦官から夜の権限を根こそぎ奪い取れる。


キーンと耳鳴りがするほどの静寂が、広い執務室を満たしていく。

サァッ、サァッ……。

再びゆっくりと筆を動かし、木簡を擦る乾いた音だけが針の筵のような重圧となって堂内に響き渡った。




(お前が己の首を絞める鎖を欲しがるのなら、望み通り与えてやろう)




筆を置き、ゆっくりと顔を上げて、絶望と期待に揺れる瞳を真っ直ぐに見据えた。




「……皇后が自らの不始末を認め、心を入れ替えるというのなら、その言を無碍にはすまい。よかろう、再開する」




その言葉が堂内に落ちた瞬間、張り詰めていた郭聖通(カク セイツウ)の肩が大きく崩れ、安堵の涙がぽろぽろと大理石の床を濡らした。歓喜に震えながら「ああ、陛下……っ!」とむせび泣くその姿を冷徹に見下ろしながら、あらかじめ用意していた氷の刃を次々と突き立てていく。




「だが、条件がある。皇統はすでに足りているゆえ、御渡りの頻度は以前のように頻繁とはゆかぬ。数日に一度とし、さらにそのうちの一度は、皇子や皇女を成した妃との夕餉を共にするのみとする。無理に褥を共にする必要はあるまい」




「……はい。陛下のお心のままに」




「そして、もう一つ。皇后が『統制の不始末』を自ら認めた以上、後宮の夜の差配をこれまで通り大長秋(だいちょうしゅう)・賈謐(カ ヒツ)に任せておくわけにはいかない。これより、夜の帳簿と差配の一切は余の直轄とし、管理をする」




大長秋からの権限剥奪。渭北派が後宮の夜を我が物顔で操り、愛しい女を排斥し続けてきた最大の武器を、たった今この手で完全に粉砕したのだ。

だが、眼下で平伏する郭聖通は己の手足をもがれたという事の重大さに微塵も気づいていなかった。ただ『皇帝が再び自分の元へ通ってくる』という表面的な約束を勝ち取った喜びに酔いしれ、「ありがたき幸せに存じます」と深く頭を下げている。




(愚かな)




ひれ伏す皇后を見下ろしながら、胸の奥底で燃え盛っていたのは、遠く離れた西の宮で我が子を抱く気高き妻への狂おしいほどの思慕だけだった。

御渡りを再開したところで、この欲深き渭北の獣たちに権力の源泉となる命の種をくれてやるつもりなど毛頭ない。帳の奥での交わりは渭北以外の弱小派閥の女にのみ形ばかり行い、もし渭北の血を引く女を抱くことがあろうとも、その胎の奥底へ決して胤は落とさず熱を外へと吐き捨てるだけの虚無の作業で終わらせる。


俺の心も魂も、そして雄としての命の熱のすべては、あの温かな宮で待つ愛しい女と陽という光だけのもの。

誇りと命を守り抜くためならば、幾度でもこの後宮の毒をすべて欺き、喰い破ってやる。




◆◇◆




夕刻の椒房殿(しょうぼうでん)。濃密な麝香の香りが漂う自室に戻り、私はようやく張り詰めていた息を吐き出した。




「やはり、陛下は私を見捨ててはおられなかったわ……」




目元を拭い、鏡の前で乱れた髪飾りの位置を直す。御渡りは再開されるのだ。私が後宮の秩序を正すと約束し、涙ながらに訴えたからこそ陛下は頷いてくださった。私こそが正妻であり、彊(キョウ)という長男を産んだ天下の国母なのだから、当然のことである。


だが。

日が落ちて芯から冷えゆく部屋の中で独りになると、先ほどの執務室での皇帝の言葉が、恐ろしい輪郭を伴って頭の中をじわじわと侵食し始める。




(『夜の帳簿と差配の一切は余の直轄とする』……?)




その条件の真の意味に、遅れて気がつき愕然とする。

私が、そして大長秋を通じて渭北の血族が握りしめていた後宮の実権は、あの短い言葉であっけなく根こそぎ奪い取られてしまったのだ。

そして何より胸を抉るのは、私を見下ろしていたあの氷を透かしたような冷え切った眼差し。私が惨めに涙を流してすがりついたというのに、あの恐ろしい瞳の奥には妻への情熱などただの一滴すら存在していなかった。




「どうして……どうしてなの!」




ドロドロとした黒い泥のような嫉妬が、腹の底から沸点に達する。

脳裏をよぎるのは、あの憎き女の涼やかな横顔。あいつこそが私を「愛されていない惨めな女」だと心の底から見下し、声もなく嘲笑っているに違いない。


居室を出て、夕陽が血のように赤く染め上げている御苑の水榭(あずまや)へと足を運ぶ。

そこには、私に付き従う謝美人(しゃびじん)が控えていた。




「私こそが皇后なのに……っ!」




ふと、院落(庭)の向こうに人影が動くのが見えた。

淡い紅梅色の衣を纏い、侍女を一人だけ連れて静かに歩みを進める鸞(ルァン)の姿。

あれほどの途方もない寵愛と宝の山を独占しながら、少しも驕る様子を見せない。華美な装飾も身につけず、ただ一歩引いて足音すら立てずに佇んでいる。その態度こそが私の皮膚を鈍い刃で逆撫でするのだ。




(私がどれほど焦がれても手に入らないものを、あの女はすべて持っている……!)




見せつけんばかりのその隙のない気高さが、心の奥底にこびりついて離れない『本当は誰からも愛されていない』というみじめな劣等感を容赦なく抉り出し、真っ黒な泥のように暴き立ててくる。

手にした象牙の扇子を握りしめる指先に、ギリッ、と異常な力がこもった。




「……皇后様?」




謝瑤(シャ ヨウ)の怯えたような声と同時に、バキリと乾いた破砕音が鳴り響き、高価な象牙の扇子が掌の中で無惨に砕け散る。

鋭く折れた破片が肌に食い込み、じわりと生ぬるい血が滲む。だが、そんな物理的な痛みなど微塵も感じない。

あの澄み切った偽善の横顔を、この業火のような憎悪で黒焦げに焼き尽くしてやりたい。胸の奥底で決して引き返すことのできない狂気がドロドロと黒く煮えたぎり、全身の血を沸騰させてゆく。


そこへ、背後の暗がりからねっとりとした声が響く。

音もなく近づいてきたのは大長秋の賈謐だった。彼もまた夜の差配権を奪われ、同じく底なしの憎悪を腹の底で煮えたぎらせているに違いない。不気味な宦官は私の耳元へ顔を寄せると、極上の毒を吐き出すように囁いた。




「あの女が涼しい顔をしていられるのも、その誇りがあればこそ。……ならば、足元から崩してやりましょう」




「崩す……?」




「ええ。まずは手始めにーー」

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