第61話
陽が産声を上げてからというもの、僅かな公務の隙間を縫うようにして西の宮へ足を向けてしまう。
今日も南苑州から届いたばかりの滑らかな絹織物と、細工の細かい珊瑚の髪飾りを宦官に持たせ、愛しい妻の居室へと足を踏み入れた。
「鸞、南から良い品が届いた。お前の紅梅色の衣によく似合うだろう」
俺が声をかけると、窓際で小さな産着に針を通していた妻は静かに手元を止めて立ち上がる。床に衣の裾を擦る微かな音を立て、深く、一切の乱れもない礼をした。
「陛下、もったいなきお心遣い、心より感謝いたします」
涼やかで、どこまでも澄み切った臣下としての響き。
部屋の卓の上に、次々と目も眩むような宝物が並べられていく。だが、妻はその冷たい輝きへ視線を落とすだけで、かつて晶陵の陽だまりで顔を綻ばせてくれた頃の面影は微塵も浮かばない。
足元に財宝の山を積み上げれば上げるほど、二人の間には分厚い氷の壁がそびえ立ち、その向こう側へと最愛の人の姿が霞んでいくかのようだった。
「……気に入らなかったか」
「いいえ。身に余る光栄に存じます」
感情の欠片も読み取れない硝子のような瞳で、ただ淡々と頭を下げる。
その完璧なまでに閉ざされた態度に、五臓腑がギリギリと軋む音を立てた。
皇統という絶対の盾を与えて毒牙から命を守り抜くためとはいえ、己の欲で無理やりに最後の一線を踏み躙り、魂を砕いてしまった。憎まれることなど百も承知で鬼に堕ちたはずなのに、一番欲しかったはずの心奥から永遠に締め出されてしまった痛みが、昼夜を問わず全身を苛み続けている。
形ある物で周囲を埋め尽くし、黄金の鎖で繋ぎ止めなければ、今にもその輪郭が幻のように消え失せてしまいそうだ。
家訓として身を慎む女にとって、莫大な富を一度に与えられることがどれほど息の詰まる鎖であるか分かっている。他の女たちが数年かけて得るような財を俺が際限なく注ぎ込めば、周囲から過剰な寵愛として悪目立ちすることも。それでも、空回りする狂おしい渇渇をどうすることもできず、ただ狂気のように富を注ぎ込み続けることしかできない。
皮膚を削ぐような冬の風が吹き抜ける南宮の渡り廊下。
宝の山を一瞥もせず、ただ静謐な瞳で俺を突き放した冷ややかな横顔が、網膜にこびりついて離れない。逃げるように回廊を進む足取りは、まるで泥濘に沈み込んだかのように重く引き摺られていく。
「――陛下」
静まり返った回廊に、耳障りな金装飾の擦れる音とねっとりとした甲高い声が響く。振り返らずとも、それが後宮を牛耳る大長秋・賈謐だと分かった。顔に塗りたくられた白粉と人工的な香油の匂いが、冷気の中にひどく不快な澱みを作っている。
「謝美人様がお産みになられた第四皇子・英様は、近頃めっきりお丈夫になられました。皇后様の第二皇女・瑛様も、ことのほか健やかに……」
「大儀」
仰々しく身振り手振りを交えようとする賈謐を、俺は歩みを止めることもなく、一切の抑揚を削ぎ落とした声で短く遮った。
「皇統が安泰であるのは重畳。引き続き、滞りなく養育せよ」
渭北の女たちが産んだ子供たちは、天下を平定し盤面を安定させるための政治的な存在でしかない。無事に呼吸をしているという報告以上の関心など、俺の内側から湧き上がることはなかった。
だが、その時。
回廊の先、冬の淡い陽光が差し込む庭園の隅で、乳母に抱かれた小さな赤子の姿が視界の端を掠める。
――陽。
その小さな赤い頬を認めた瞬間、無意識のうちに歩幅を広げ、控えていた乳母から我が子を己の腕の中へと抱き取っていた。
「陽……。今日も機嫌がいいな」
外気に触れて少し冷えた柔らかな肌へ自らの無骨な頬をすり寄せると、陽は太い指を小さな両手でぎゅっと握りしめ、あうあうと無邪気な呼気を漏らす。
その羽毛のような感触と、微かに漂う乳の甘い匂いに触れた途端、凍りついていた胸の奥から急速に血の通った熱が広がっていった。
俺と愛しい女の血が混じり合った、たった一つの確かな命。
妻の魂は厚い氷に閉ざされてしまったが、この小さな温もりを腕に抱いている間だけは、行き場のない狂おしい渇きがほんの少しだけ潤うような気がした。
◆◇◆
夕陽が御苑の池を、沈みゆく血のように赤く染め上げている。
東屋に設えられた茶会の席で、私は微かに震える指先を隠すように、すっかり冷え切った茶杯を強く握りしめていた。
「……またですか。あれもすべて、陰貴人の宮へ運ばれると?」
傍らに控える謝美人が、忌々しげに甲高い声を尖らせる。視線の先、長く続く渡り廊下を、色鮮やかな絹織物や目も眩むような宝飾品をうず高く積んだ官女たちの列が、延々と西の宮へ向かって進んでゆく。
西の宮へと連なる、目も眩むような極彩色の列。それは、陛下が毎日飽くことなく、あのいまいましい女の足元へ注ぎ続けている底知れぬ狂熱の証明であった。
「皇后様。先ほど、陛下が回廊にて……」
そこへ、大長秋の賈謐が音もなく近づき、ねっとりとした声で私の耳元へ息を吹きかける。
「謝美人様の皇子や、皇后様の皇女の健やかなご成長を申し上げても、陛下は『大儀』と一瞥もくださらぬばかりか……直後にあの女がお産みになられた陽様のお姿を見るや、自ら歩み寄り、満面の笑みで抱き上げておいででした」
ピキリ、と。頭蓋の奥で、何かがひび割れる音がした。
私は渭北の最大軍閥、真定王家の血を引く郭家の娘だ。この渭国の皇后として天下の母となり、長男である彊を産み落とした。軍事の要として、誰よりも夫を支えてきたのはこの私。当然、正妻である私を一番に尊び、愛してくださっているのだと信じて疑わなかった。
だが、現実はどうだ。彼は私と床を共にした後、一度として朝まで同じ寝台に留まったことはない。常に背を向け、事務的な務めを終えるや否や氷のように冷酷な足取りで部屋を出て行く。なのに、あの女にだけは天下の富を際限なく注ぎ込み、あの子にだけ、今まで他の子供たちにすら見せたことのない甘い父親の顔を晒すというのか。
ふと、庭園の向こうに人影が動くのが見えた。
淡い紅梅色の衣を纏い、侍女を一人だけ連れて静かに歩みを進める陰鸞の姿。
あれほどの途方もない寵愛と宝の山を独占しながら、少しも驕る様子を見せない。華美な装飾も身につけず、ただ一歩引いて足音すら立てずに気高く佇んでいる。
(私がどれほど焦がれても手に入らないものを、あいつはすべて持っている……!)
見せつけんばかりのその隙のない気高さが、私の心の底にこびりつく醜い欠落を容赦なく抉り出し、太陽の下へ黒々と暴き立ててくる。
手にした象牙の扇子を握りしめる指先に、ギリッ、と異常な力がこもった。
「……皇后様?」
謝瑤の怯えたような声と同時に、バキリと乾いた破砕音が鳴り響き、高価な扇子が掌の中で無惨に砕け散った。
折れた破片が肌に食い込み、じわりと生ぬるい血が滲む。だが、そんな物理的な痛みなど微塵も感じない。
あの澄み切った偽善の横顔を、業火で黒焦げに焼き尽くしてやりたい。胸の奥底で決して引き返すことのできない狂気が、ドロドロとした黒い泥となって全身の血管を煮えたぎらせてゆく。
掌から滴る血を拭いもせず、私は御苑から南宮の執務室へと歩を速めた。
動くたび、身に纏った重厚な毛皮と豪奢な金装飾がジャラジャラと耳障りな音を立てる。普段ならば自らの威厳を示すその響きも、今は焦燥を煽る不快なノイズでしかない。
(このままでは、私と彊の立場が危うい……!)
あの下劣な女に、この天下の母としての正当な未来を脅かされてなるものか。強大な軍勢を背負って輿入れし、皇統を継ぐ第一皇子を産んだのは他でもないこの私だ。
だというのに、彼は私をただの政治の礎としてしか扱わない。交わる瞳の奥にはただの一滴の熱も宿らず、務めを果たせばすぐさま氷のように立ち去ってしまう。
なぜ、あの田舎娘にだけ、天下のすべてを投げ打つような情念を傾けるのか。這い上がる屈辱の業火が、私の頭蓋の内側を完全に焼き切っていた。
南宮の執務室の前に辿り着くと、顔を引きつらせた近侍たちが慌てて立ち塞がる。
「こ、皇后様! 陛下は現在、公務の最中であらせられます。お通しすることは……」
「退きなさい! 天下の国母たる私を、誰だと思っているのです!」
私は血の滲んだ手で近侍を突き飛ばし、濃厚な麝香の香油の匂いを撒き散らしながら、執務室の重厚な扉に手をかけた。
バァン、と。
怒りに任せて力いっぱいに押し開かれた扉が、重い音を立てて壁に激突する。
広大な執務室の奥。
夕闇が迫る薄暗い堂内で、竹簡に向かっていた皇帝が静かに筆を置いた。私が荒々しい息を吐きながら踏み込んでも、その広い肩はピクリとも動かない。ただ、ゆっくりと顔を上げ、こちらを見据えた。
その瞬間、部屋の空気が一変する。
煮えたぎる血の熱など一瞬で凪がせるような、万物を凍らせる静寂。
こちらを見据えるその双眸には、突然闖入してきた妻への驚きも、怒りの色すら浮かんでいない。ただ、道端の石ころを睥睨するような、息の詰まるほど冷酷な殺気だけが淀みなく溢れ出している。
「……何用だ、皇后」
大理石の床を這うような、低い声。
その絶対的な氷の眼差しに射抜かれ、私の背筋にゾクリと悪寒が走る。
ここで退けば、もはやあの女の影に怯え続けるだけの無様な道化に落ちてしまう。血の滲む指で絹衣の裾を白くなるほど強く握りしめると、強張る顎を上げ、天下の覇王たる冷血な夫を真っ向から睨み返した。
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