第60話
南宮での政務の最中。突如として駆け込んできた宦官の弾んだ声が、静まり返った執務室の空気を激しく震わせた。
「申し上げます! 陰鸞貴人様が、無事、健やかなる皇子を御出産あそばしました!」
カラン、と。握っていた木簡が床に落ちる乾いた音を背に受け、俺は玉座を蹴り立てて駆け出していた。
近侍の制止の声など、もはや微塵も鼓膜には届かない。分厚い玄衣が風を切り、冷たい石畳を蹴る己の足音だけが耳の奥でけたたましく鳴り響く。
これまで郭聖通や他の妃嬪が子を産んだと知らされた時、胸を満たしていたのは、皇統を継ぐ駒が揃ったという冷え切った打算のみ。他の女が腹を痛めようと、この胸が早鐘を打つことなどただの一度としてなかった。
だが、今は違う。
産屋の重厚な扉を乱暴に開け放つと、薬湯と濃い血の匂い、そして噎せ返るような熱気が一気に全身を包み込んだ。
慌てて平伏する侍女たちを押し除け、寝台の傍らへと崩れ落ちるように膝をつく。そこにあったのは、額に汗を張り付かせ蒼白になった最愛の妻と、その細い腕のなかで力強く空気を震わせる小さな赤い命の姿だ。
「陛下……」
荒い息を吐く妻の腕の中から乳母がそっと赤子を抱き上げ、恐る恐るこちらの胸へと差し出してきた。
震える太い腕で、その壊れそうなほど柔らかく重みのある熱を抱き取る。かすかに香る乳の匂いと、きゅっと握られた赤く小さな拳。己の血と、世界で一番愛する女の血が混じり合った、たったひとつの確かな結晶。
(ああ……これが、俺と鸞の子か)
腕の中で目一杯に肺を膨らませて泣き声を上げる小さな赤い顔を、食い入るように見つめる。この柔らかく熱い塊は、決して他派を牽制するための無機質な駒などではない。光の差さない後宮の底でじっと耐え忍んできた愛しい女の分まで、ただ眩いほどの光を浴びて健やかに育ってほしい。血の通った切実な願いが、喉の奥から熱い塊となってせり上がってくる。
冬の凍てつく空気を完全に遮断した産屋のなかは、幾つも焚かれた火桶の熱気と、圧倒的な密度の重みで満たされている。
赤子を片腕に抱いたまま、汗で漆黒の髪を肌に張り付かせ、浅い息を繰り返す鸞の傍らへと静かに身を寄せた。
空いたもう片方の手で、力なく絹の夜着に投げ出されていたその細い指先を、祈るようにしっかりと握りしめる。
「ありがとう……鸞」
喉の奥から絞り出した声はひどく掠れ、己の瞳から熱い滴が零れ落ちるのを感じた。
ぽつり、ぽつりと、握りしめた白磁の手の甲を温かく濡らしてゆく。
「きみが、俺の子を産んでくれた。俺ときみの血を引く、この小さな命を……。これが、俺たちの光だ」
愛する妻の矜持を力ずくで砕き、強引に一線を越えたあの夜の罪悪感。底知れぬほど憎まれることを覚悟の上で振るった修羅の業。
けれど、こうして二人の間に確かな命が誕生し、無事に産声を上げた今。力強く泣き喚くこの赤子を前にしては、あの理不尽な強行すらも、光を現世へ呼び込むための必然だったと思えてしまう。胸の奥の罪すら焼き尽くすほどの圧倒的な熱が、己の鼓動を激しく打ち鳴らしていた。
俺は腕の中で泣き声をあげる我が子を見つめ、はっきりと声を響かせた。
「この子の名は、『陽』だ。俺たちの……明るい光となるよう、劉陽と名付ける」
その瞬間、背後に控えていた大長秋をはじめとする宦官や侍女たちが、信じられないものを見たかのように一斉に息を呑む気配がする。
周囲の強張った空気など意に介さず、俺の視線はただ目の前の妻へと注がれていた。
温かな気配のなか、手を握られた鸞は疲労の濃い顔に、かつて晶陵で見せてくれた春の陽光を思わせる柔らかな弧を描いた。
「はい……郎君」
掠れた、けれど確かに耳へ届いたその温かな響き。
『皇帝陛下』という冷たい鉄のような呼称はそこにはない。ただ一人の夫へ向ける、柔らかな喉の震えだけが空気を伝わってくる。
その二文字が響いた瞬間、胸の奥で重く冷たい鉛のように沈殿していた猜疑心が、一気に熱を帯びて融け落ちてゆく。血と泥に塗れた長い月日を越え、ようやくこの腕のなかに誰も奪うことのできない完全な箱庭が収まったのだと、視界が滲むほどの熱波が全身を駆け巡った。
やがて夜の帳が下り、赤子が満ち足りた寝息を立て始めると、乳母や侍女たちが一礼して産屋から静かに下がってゆく。
重厚な扉が閉ざされ、噎せ返るような熱気の名残と、微かに漂う産着の柔らかな匂いだけが残される。広く豪奢な産屋は、俺と妻の二人きりとなった。
昼間の幸福な余韻に胸を温めながら、寝台の傍らに腰を下ろす。再びその細い指先を愛おしく包み込もうと手を伸ばした。
「鸞……。よく、休んでくれ」
だが。
掌が触れるか触れないかの瞬間。部屋の空気が、底知れぬ氷雪のごとく凍りついた。
妻は静かに、けれど明確な拒絶をもって、俺の手の平からすっと自らの指を引き抜く。
触れ合ったはずの掌から急速に体温が奪われ、見えない氷の刃を喉元に突きつけられたかのような錯覚に全身の血が凍りついた。
「……鸞?」
戸惑いながら見下ろした先に、先程まで赤子を見つめていた温かな母の気配や、俺に微笑みかけた愛しい妻の面影はもはや微塵も残っていない。
一切の熱を持たない硝子のように澄み切った氷の瞳が、底知れぬ静寂の底からただ冷ややかにこちらを射抜いている。
「勿体なきお言葉でございます、陛下」
微かな震えすら伴わない、完璧なまでに平坦な声。
鼓膜を打ったその無機質な響きに、心臓が氷の刃で深く抉られたように激しく軋んだ。
俺たちは身体を重ね、確かな命をこの世に生み出した。
だが、その魂だけは、決して俺の思い通りには穢されなかったのだ。
必死に抗う華奢な手首を寝台へ力で縫い付けたあの夜。紅梅色の絹衣が乱れ、触れた肌はどこまでも冷え切っていた。血を吐くような思いで守り抜こうとした妻の矜持を、俺は容赦なく引き裂いている。たとい血を分けた赤子を腕に抱こうとも、硝子のような瞳の奥に広がるのは、二度と手の届かない深く暗い静寂の底でしかなかった。
他者の目があるところでは、皇子の父親への敬意として『郎君』と呼び、非の打ち所のない家族を演じてみせる。だが、こうして二人きりになった瞬間、俺を完全な他人――『皇帝』として切り捨てるのだ。
かつて晶陵の河のほとりで、濡れた瞳でこちらを見つめてくれていた姿は、もはやあの双眸の奥のどこを探しても見当たらない。
肉体をどれほど深く繋ごうとも、その魂はもう二度と手に入らない。
喉元に突きつけられた残酷すぎる真実に、俺は呼吸すら忘れたまま、熱を持たない氷の瞳をただ見つめ返すことしかできなかった。
明確な一線を引いた鸞は、それ以上何も語ることなく、ただ静かに長い睫毛を伏せる。
部屋を支配するのは、息が詰まるほどの凍てついた沈黙と、片隅で眠る赤子の微かな寝息だけ。その小さく温かな音が響くたび、二人の間に横たわる決定的な断絶の深さが、より一層残酷に浮き彫りになってゆく。
(俺は……間違っていたというのか)
子無を理由に後宮から追放されるという渭北派の策略を阻止するため、己の魂の半身の尊厳をこの手で無惨に踏み躙った。
皇統という絶対の盾を与え、確かな光を生み出したはずだったのに。代償として失ったものの途方もない重さが、五臓腑をギリギリと削り取ってゆく。
夜の闇に沈む南宮の執務室へと重い足取りで戻りながら、力なく己の掌を見つめた。
剣だこのこびりついた分厚い掌を、薄暗い空間でゆっくりと握りしめ、そして開く。数多の敵の血を吸い、万の兵を平伏させてきたはずのこの手には、一番欲しかったはずの柔らかな体温だけが残っていない。ひどく乾いた虚無感だけが、指の隙間をすり抜ける夜風となって皮膚を撫でていく。
――どうすれば、あの頃の鸞を取り戻せる?
――どうすれば、『老虎』という呼び声を、もう一度俺に向けてくれる?
冷たい暗闇のなか、冷え切った玉座に身を沈めて深く頭を抱え込む。
懐に忍ばせた、擦り切れた古い組紐を指の骨が白く浮かぶほど固く握りしめた。
もはや言葉や謝罪など、あの鼓膜を虚しく通り抜けるだけだ。俺が龍袍を纏っている限り、最愛の妻は決して臣下としての分厚い仮面を外さない。
ならば、俺はどうすれば良いのだ。
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