第72話
すべての粛清が終わり、南宮の正殿には、洛華に本来あるべき氷のような静寂と秩序が戻っていた。
金穴と呼ばれた郭一族とその与党が根こそぎ排除されて数日。玉座から見下ろす百官の列には、皇帝を試すような傲慢な視線も、腹を探るような卑屈な笑みももはや存在しない。あるのはただ、絶対的な頂点に対する畏怖と深い沈黙だけだ。
広く冷たい正殿の空気を肺の奥底まで深く吸い込み、天下に向けて、長年胸の奥へ厳重に封じ込めてきた一つの真実を公表すべく口を開いた。
「皆の者、聞くがよい」
低くよく通る声が重厚な石柱を伝い、広大な正殿の隅々にまで反響する。
「朕の最初の妻は、南苑州の陰鸞である。かつて渭北の軍勢を得るため、朕は郭氏を娶ったが、真定王にも明確に伝えた上での軍事同盟に過ぎなかった」
群臣たちが息を呑む気配が、さざ波のように広がっていく。
「にもかかわらず、陰氏は朕の名誉に傷をつけまいと、自ら皇后の位を固辞した。己が正妻であるという真実を隠し、夫たる朕の名誉を守るためだけに自らの名誉を犠牲にして謂れのない泥にまみれ、国の平穏のために耐え忍んでくれたのだ」
愛しい女がこの冷たい後宮で流してきた声なき涙。暗闇の中で己の喉を掻き毟った、あの凄絶な絶望の夜。
すべては夫たる俺を守るため、身を削って耐え抜いてくれた証。これは決して狂った寵愛などではない。理不尽な泥にまみれながらも真の気高さを失わなかった妻を正しき場所へ戻すことこそが、男として、そして人の道として当然の報いである。
「だが、偽りの均衡は終わった。もはや、この方の尊厳を理不尽に脅かす者は、天下のどこにもいない」
玉座の硬い木彫りの肘掛けを、ギリッと音が鳴るほど強く握りしめ、かつてないほどの威厳と誇りをもって明確な詔を下す。
「真に天下の母たる気高さと義を持つ本来の妻を、正しき地位へ戻す。これより、陰鸞の名誉を完全に回復する。陰氏を『光烈皇后』とし、名実ともに天下の母として正式に迎える」
「万歳! 万歳! 万々歳!」
群臣たちが一斉に平伏し、衣の擦れる音と祝福の歓声が正殿を大きく揺るがした。
◆◇◆
朝議の厳粛な熱が引いた後、澄み切った青空の下、洛華の南宮には祝いの雅楽が鳴り響き始めた。
立后の儀式。祭壇の頂で、皇帝の正装である重い玄衣を纏って立つ。
その分厚い布地の内側、肌に直接触れる場所には、かつて遠征の前に最愛の人が手縫いしてくれた猛虎と飛鸞柄の『戦袍』を密かに抱いていた。泥を啜り、血に染まった過酷な覇道の最中も、常に絶望の底から俺を繋ぎ止めてくれたただ一つの確かな温もりだ。
広場の端、長く続く白玉の階段の下に一つの影が現れる。
重厚な皇后の冠。透き通るような白い肌を最も美しく引き立てる、淡い紅梅色を基調とした上質な絹の礼服。
かつて渭北で、郭聖通が同盟の楔として見せつけたような、金と権力を誇示するだけのけばけばしい豪華さとは違う。そこにあるのは、どんな理不尽な嵐にも決して折れなかった真の気高さと、『天下の母』としての凛とした威厳だった。
サァッ、サァッ。
静かな衣擦れの音を響かせ、新しき皇后が一歩、また一歩と祭壇への階段を登ってくる。
吹き抜ける洛華の風には、もう冬の氷雪の冷たさも戦場の鉄と血の匂いも欠片ほども残ってはいない。頬を撫でる柔らかな風には、かつて共に過ごした南苑州の、春の陽光と花茶のような甘く温かい香りが満ちていた。
ゆっくりと近づいてくる姿を見つめながら、胸の奥でこれまでのすれ違いと苦難の記憶が走馬灯のように駆け巡る。
雪中の盟津での屈辱。組紐の消えた手紙を握りしめたあの凍てつく夜。後宮という檻のなかで強いた冷たい沈黙。そして理不尽な悪意が言葉と家族を奪った、あの胸を掻き毟るような絶望。
(ああ……俺は、この美しい鳥を再び空へ還すために、修羅になったのだ)
泥を啜り、獣脂と鉄の味に塗れたすべての過去が、今、光を纏ってこちらへ向かって歩いてくる気高き姿によって、深く静かに肯定されていく。
血塗られた手で切り開いてきた覇道は決して無駄ではなかった。泥と血に塗れた道程はすべて、このたった一人の女を誰にも侵されぬ最も高い場所へ引き上げるための道標に過ぎなかったのだと。
黄金の光が降り注ぐ祭壇の上で、俺は呼吸を忘れ、光の中を歩んでくる比翼の片割れをただ熱を帯びた瞳で待ち焦がれていた。
やがて光を跳ね返す白玉の階段を、鸞が最後の一段まで登り切る。
その背後にピタリと付き従う、重厚な足音があった。
ガシャリ。
陽光を反射して煌びやかに輝く甲冑。近衛軍団長であり、首都の警備を束ねる最高位の武官『執金吾』の装束を纏った男――陰家当主、陰識だ。
亡き兄・劉昂と交わした「命に代えても守り抜く」という誓いを、決して違えることなく果たし抜いた男。いかなる悪意も寄せ付けない強固な石壁のように、絶対的な最強の盾として俺たちの背後を盤石に守護している。
その威風堂々たる姿を見た瞬間、脳裏に遠い昔に長安で見た華やかな行列と、青臭い野心を口にした自分の言葉が鮮やかに蘇った。
『官に就くなら執金吾、妻を娶るなら陰鸞が良い』
思わず、目頭が熱く滲むのを感じる。
あの若き日の夢は己自身が執金吾になるのではなく……俺が天下を統べて最も愛する女を妻とし、最も信頼する義兄が執金吾としてその背中を守り抜くという、これ以上ないほど完璧な形で具現化していたのだ。
一歩前に出て、真っ直ぐに力強く右手を差し伸べる。
新しき皇后は一瞬、かつて強いていた「側室」としての身分を思い出したのかためらうように長い睫毛を伏せた。だが、やがてそっとその小さな手を大きく開かれた掌に重ねてくる。
指先に伝わる、滑らかな絹の手袋越しでもはっきりとわかる柔らかく温かい体温。
この手を、もう二度とこの世の何者にも奪わせないという決意を込めて、強く骨が軋むほどに握りしめた。
力強さにハッとしたように、鸞がゆっくりと顔を上げる。
琥珀色の瞳は薄っすらと水膜に潤んでおり、しかしどこか懐かしい……かつての晶陵の河のほとりで幼馴染に向けたような、静かで温かい微笑みを浮かべていた。
(鸞……。俺の、ただ一人の妻……)
温もりを引き寄せ、皇帝の仮面の奥で誰にも聞こえない魂の誓いを立てる。
これで二度と、きみを傷つけさせはしない。俺のすべてを懸けて、きみの永遠の春を守り抜いてみせる。
祝福の雅楽が吹き抜けるなか、名実ともに天下の母として並び立った俺たちは繋いだ手の熱を確かめ合うように、真っ青に澄み渡った洛華の空を共に見上げていた。
◆◇◆
澄み渡った青空はやがて茜色に染まり、盛大な立后の宴とそれに続く煩わしい公的儀式がすべて終わる頃には、洛華の宮廷に深い夜の帳が下りていた。
夜を支配していたあの忌まわしい香油の匂いも、足取りを鉛のように重くしていた義務という名の鎖も、今はもう存在しない。ただ血の通った一人の男として、愛する妻が待つ椒房殿へと真っ直ぐに歩みを進める。
部屋を満たしているのは、かつての噎せ返るような麝香の匂いではない。晶陵でよく淹れてくれた、あの懐かしく甘い花茶の清涼な香りだ。
「陛下。お疲れ様でございました」
寝所の前で控えていた筆頭侍女の柳婉たちが、恭しく一礼をして部屋から下がっていく。
ギィィ……パタン。
分厚い木板が閉じ合わさる微かな反響と共に、冷たい風も血生臭い鉄の匂いも玉座に付きまとっていた重圧もすべてが外の世界へと閉め出される。肺を満たすのは、清らかな花茶の香りだけ。
部屋の中央で足を止めると、一日中その身を縛り付けていた皇帝としての重い仮面――威厳ある玄衣の帯に手をかけ、ためらうことなく解いた。
バサリ、と。
厚い絹と金糸で織られた重厚な衣が、無造作に床へと滑り落ちる。
その重い音を合図にするかのように、十七年間張り詰め続けていた冷酷で非情な覇者としての鎧が音を立てて砕け散っていくのを感じた。
「……終わった。すべて、終わった」
深い安堵に満ちた掠れた声が喉から漏れる。
視線の先、寝台の縁には薄衣一枚を纏った最愛の人が静かに腰を下ろし、こちらを見つめている。かつてのような怯えや臣下としての冷たい遠慮は、その澄み切った瞳には微塵も存在しない。
肩に食い込んでいた重圧が衣と共に床へ滑り落ちると同時に、呼吸がひどく楽になる。ただ己の体温だけを頼りに、待つきみの元へ歩み寄った。
寝台の傍らに辿り着いた俺は、床に両膝を突き、すがりつくようにして細い腰をきつく抱きしめた。
「……っ、すまなかった……」
滑らかな薄衣越しに伝わってくる柔らかな体温に、抑えきれない震えが走る。
「長い間……きみだけを、冷たい暗闇のなかで泣かせて……っ。すまなかった……!」
気管が塞がるような謝罪と愛を絞り出しながら、迷子になった子供のように温かい首筋へと深く顔を埋めた。
一介の将軍として渭北の軍閥と同盟を結び、その後、皇帝となって後宮という檻に閉じ込めて以来。鸞が自ら進んで俺に触れてくることはなかった。俺が触れれば静かに受け入れたが、そこには常に「臣下」としての決して越えられない見えない氷の壁が存在していた。
だが、今夜は違った。
震える背中に、そっと温かな重みが触れる。
細い腕が、長年自らが強いていた見えない壁を取り払うように、俺の背中へとしっかりと回されたのだ。そして、白く細い指先が、髪を昔のように優しく梳き始める。
「……お帰りなさいませ、老虎」
頭上から降ってきたのは、深い慈愛に満ちた甘く柔らかな声だった。
最も渇望していたあの愛称。そこには一切の拒絶も諦めもなかった。かつて晶陵の河のほとりで帰りを待っていてくれた時のような、完全なる受容の温もりがそこには確かに存在している。
「あ……ああ……っ」
目から堰を切ったように熱い雫が溢れ出し、薄絹の衣をとめどなく濡らしていく。
夜風が帳をかすかに揺らす。外の世界の喧騒が完全に遮断され、かつての故郷を思わせる穏やかな静寂のなかで、俺は顔を上げることもできずただ声を上げて泣き続けた。
天下を平定し皇帝の座に就いたからといって、魂は満たされなかった。
ただこの腕の中の温もりを……愛する女の絶対的な微笑みを取り戻すためだけに、人間性を殺し血塗られた修羅の道を歩んできたのだ。
「鸞……俺の、鸞……っ」
甘い香りを深く吸い込み、その小さな手で背中を抱きしめられながら、傷だらけの魂はこの世の何よりも優しい光によって完全に救済されてゆく。
どれほどの時間を経て、そうして腕にすがりついていただろうか。
ゆっくりと顔を上げ、涙で滲む視界の先にいる妻を見つめた。
白く細い指先が、頬を伝う雫をそっと拭ってくれる。その果てしなく優しい指先にすがるように口づけを落とすと俺は立ち上がり、そのまま華奢な肩を抱いて柔らかな寝台へと深く押し倒した。
「……っ」
背中を預けた赤い唇から、微かな甘い吐息が漏れる。
薄明かりの中で熱を帯びたその唇を、もはや一寸の躊躇いもなく塞いだ。
深く、甘く、長年の渇きを癒やすように唇を重ね合わせる。互いの激しい心音と切実な吐息が重なり合い、火傷しそうなほどの熱が全身の血を駆け巡っていく。
かつては『一夫一婦』の矜持を守り抜くため、同じ寝台で肌を合わせながらも、決して最後の一線だけは越えまいと己の指を噛み、血を滲ませるほどの狂気的な自制心で本能を抑え込んできた。
そして、皇統を維持するという政治の重圧によって俺自身がその密約を破り、強引に柔らかな身体を貫いたあの日。焦燥と独りよがりな行為が、どれほど深くその心を傷つけたか。
だが、あの冷たい『清い結婚』の鎖も、すれ違いの絶望も、今夜ですべて終わらせる。
決して乱暴にはせず、まるでこの世で最も脆く尊い壊れ物を扱うように、邪魔な薄衣の帯にするりと指をかけ、ゆっくりと左右に開いた。
灯台の柔らかな光に照らされた、滑らかな白磁のような素肌。俺はそれを崇めるように手のひらでなぞり、完璧な美しさに熱い溜息を漏らす。
過去に刻んでしまった傷跡のすべてを上書きし、舐め癒やすように、俺は目尻、首筋、そして華奢な鎖骨へと息もつかせず口づけを落としていった。
◆◇◆
夜明けの柔らかな光が、絹の帳を通して寝所を淡く照らし出していた。
遠くから聞こえてくる穏やかな鳥のさえずりが、血生臭い闘争の時代が完全に終結し、新しい平和な時代の幕開けを告げている。
俺は、腕の中にすっぽりと収まり、心身ともに満たされて安心しきった寝息を立てる妻の温もりを感じながら、ゆっくりと目を覚ました。
かつては後宮の均衡を保つため、大長秋が管理する予定に従い他の妃嬪の元へ通うという忌まわしい義務を負っていた。その務めを終え、どれほど急いで戻ったとしても、密約がある限り一線を越えぬよう自らを戒めながら、ただ皮膚一枚の距離で朝を迎えるしかなかった。
だが、そんな不自由で残酷なルールはもうどこにも存在しない。
今はただ、俺の胸元で無防備に眠るこの愛しい女がいるだけだ。
長く艶やかな黒髪にそっと指を絡め、優しく梳いていく。
その規則的な動きに反応したのか、微睡みのなかで小さく身じろぎをした。
丸く美しい額に深く口づけを落とすと、そっとその体を抱きしめ直す。
俺の残りの生涯はすべて、この腕の中にある笑顔を守るためだけにある。すべての業が洗い流された朝の安息のなかで、俺は夫としての絶対的な誓いを、静かに心に刻み込んでいた。
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