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【完結】比翼の乱世:老虎と鸞鳥の契り  作者: 深山 凛
◆第一章◆

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第05話

柔らかな風が、水面を滑るようにして水榭(あずまや)の板間へと吹き込んでくる。

南苑州(なんえんしゅう)の豊かな水気を帯びた涼風が、卓上の白磁から立ち上る淹れたての花茶の湯気を揺らし、甘く清涼な香りを周囲に散らしていった。


私の膝の上には、確かな質量を伴った温かな重みが預けられている。

六尺(186cm)を超える長身と、しなやかな筋肉を秘めた虎のような体躯を小さく丸め、私の膝を枕にして微睡む老虎(ラオフー)。

都の女性たちから幾度も熱い視線の的になってきたと聞く彼が、今、私にだけこの無防備な寝顔を晒してくれていた。


規則正しい呼吸の音を聞いているだけで、胸の奥がきゅうっと甘く締め付けられる。

彼の艶やかな漆黒の髪にそっと指を差し込み、ゆっくりと梳いてゆく。

指の腹を滑る、冷たく滑らかな絹のような手触りと、そこからじんわりと伝わってくる確かな熱。

兄の喪中という天の理に背く婚儀であっても、彼と絆を結び、こうして彼をこの腕の中に抱え込んでいられる今という時間が、ただひたすらに尊かった。


外の世界では、簒奪者である劉莽(リュウ モウ)の追手がすぐそこまで迫っているのだろう。

明日には、彼をここから遠く戦地へと送り出さねばならないかもしれない。

けれど、この水榭の中だけは、血の匂いも陰惨な権力争いも完全に遮断された、私たちだけの絶対的な箱庭だった。


髪を梳いていた指を止め、彼の高い鼻梁から、無骨な頬へとそっと触れる。

剣を握り続けることで硬くなった肌の感触すら、私にとっては堪らなく愛おしい。



(……私の、旦那様)



音にもならない微かな唇の動きだけで、その響きを反芻する。

彼が生きている。

私の膝の上で、確かに息をしている。

ずっと片翼でありたいと願い続けた初恋が実り、彼の妻になれたのだという静かな充足感が、花茶の湯気とともに、魂の最も深い場所へとゆっくりと沁み渡っていった。


どれほどの時間が流れただろうか。

膝の上で規則正しい寝息を立てていた老虎が、ふいに短く息を吸い込み、ゆっくりと長い睫毛を揺らした。



「……すまない、寝ていたか」



深い声とともに、彼が身を起こす。

寝起きの気怠げな瞳が真っ直ぐに私を捉えた。

その眼差しがひどく熱を帯びていて、私は思わず頬に熱を集めながら小さく首を横に振った。



「いいえ。少しでも休んでいただけて、よかったです」



微笑みかけると、彼もまた、どこか気恥ずかしそうに口元を綻ばせた。

彼がゆっくりと姿勢を変えた際、その重い玄衣の懐から、幾本かの古い組紐がこぼれ落ち、カツリと卓の上へと転がった。



「あ……」



それは、彼が永安(えいあん)へ遊学していた頃から、私が手紙に添えて送り続けていたものだった。

何年もやり取りをしていたのに、彼はそれを一つも欠かすことなく、肌身離さず持っていてくれたのだ。

胸の奥が、ぎゅっと音を立てて収縮する。

彼は卓の上の組紐を拾い上げ、その一つ、朱色の糸で編まれた『双聯結(そうれんむすび)』を指の腹でそっと撫でた。



「鸞(ルァン)。お前が送ってくれたこの組紐だが……この結びの形には、何か意味があるのか?」



彼の問いかけに、私の顔はさらに火が出たように熱くなった。

彼が永安にいた頃、まだ、幼き日の淡い約束だけを頼りにその背中を見つめる娘でしかなかった私にとって、言葉で直接想いを伝えることなど到底できなかった。

だからこそ、不器用なりに、一編み一編みに切実な祈りを込めていたのだ。



「ええと……その『双聯結』は、二つの輪が連なっているでしょう? 離れていても、私たちの心は繋がっているという……友情と、その……信頼の証として編んだものです」



伏し目がちにそう答えると、彼は少し驚いたように目を見張った後、次に鮮やかな赤い糸で編まれた『吉祥結(きっしょうむすび)』を手に取った。



「では、これ(吉祥結)は?」



「それは……永安という遠い場所で、貴方がご病気や怪我をせず、ずっと健やかに過ごせますようにと。平安と健康を祈る……吉祥の結びです」



言い終える頃には、私の顔は耳の先まで朱に染まっていたはずだ。

言葉の端々に隠しきれない気持ちが滲んでいることに、彼も気づいているだろう。

けれど、こうして過去の自分の祈りを彼の前で紐解くことは、恥ずかしくも、胸の奥が温かく満たされる答え合わせだった。



「そうか……。お前は、ずっと俺のために祈ってくれていたのだな」



老虎の声は、ひどく掠れて、震えていた。

顔を上げると、彼の瞳が、まるで宝物でも見つめるように私を真っ直ぐに射抜いていた。


その熱い視線に射すくめられ、私の胸の鼓動が激しく跳ね上がる。

見つめ合う二人の距離が極限まで縮まり、吐息が触れ合うほどの近さで、彼の大きな手が私の腰へと回された。

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