第04話
重厚な木扉が鈍い音を立てて閉ざされ、外の世界の血生臭い喧騒が完全に遮断された。
広い室内を照らしているのは、卓上で微かに揺らぐ一本の燭台の炎だけ。
先ほどまで奥座敷に満ちていた、肌を刺すような身内たちの痛ましい視線はもうここにはない。
あるのはただ、私と彼、二人だけの息苦しいほどの静寂だった。
振り返る間もなかった。
背後から、骨が軋むほどの強い力で一気に抱きすくめられる。
「老虎……」
私の首筋に深く顔を埋めた彼から、ひどく熱を帯びた荒い吐息がこぼれ落ちる。
密着した背中越しに、岩のように逞しいはずの大きな身体が小刻みに震えているのが、痛いほどにはっきりと伝わってきた。
死の恐怖。唯一の盾であった兄を失った、底知れぬ喪失感。
それらすべてを背負い込み、血塗れの修羅と化して戦野を駆け抜けてきたはずの彼が、今、私というたった一つの安息を求めて、迷子のように縋り付いている。
肌に押し当てられる彼の唇が、まるで命の在り処を確かめるかのように、私の髪へ、そして耳裏へと、切なく何度も這い回る。
身内の喪に服す期間の極秘婚。
それは、天の理にも背く、決して許されない禁忌の行いだ。
けれど、私の胸の奥を激しく打ち鳴らしているのは、罪悪感でも明日への恐怖でもなかった。
幼い頃からずっと彼だけを見つめ、ただ彼の片翼でありたいと願い続けてきた初恋が、今、夫という絶対的な絆となって結実したのだ。
この血生臭い絶望の淵にあって、彼が私だけを求め、私だけを必要としてくれているという事実が、どうしようもないほどの甘い熱となって指先までを満たしていく。
「私が、ここにいます。ずっと……貴方の傍に」
私はそっと身をよじり、彼と正面から向き合うと、その広い背中へ両腕を回した。
彼から漂う微かな鉄の匂いを、私から立ち上る花茶の香りで優しく包み込み、中和していくように。
衣越しに触れ合う皮膚一枚の距離から、火傷しそうな彼の体温が直に伝わってくる。
明日、私たちがどうなるのかは誰にもわからない。
だからこそ、この夜だけは、彼を縛り付けるすべての苦痛から解き放ちたかった。
密室に揺れる淡い灯りの中、私は彼をこの世に繋ぎ止めるための命綱となるべく、その震える身体をひたすらに力強く抱きしめ返した。
彼の腕の中にすっぽりと閉じ込められたまま、ふと、彼から放たれる熱の質が変わったことに気づく。
すがるような先ほどまでの震えが消え、代わりに、ひどく濃密で重い熱気が私の肌をじりじりと焦がし始めた。
そっと見上げた彼の瞳には、戦場での狂気の残滓と、それを上回るほどの昏く激しい情欲が渦を巻いている。
長年抑え込んできた修羅としての荒々しい本能が、私という存在を前にして、今にも限界を迎えようと激しい軋みを上げているのだ。強大な獣の前に立たされたような圧倒的な気配に、私の身体がほんの微かに強張る。
「……すまない。怖がらせてしまったな……」
掠れた声と共に彼が再び身を寄せ、熱い唇が、私の額へ、そして震える睫毛の上へと、羽が触れるように柔らかな口付けを落としていく。
まるで壊れやすい薄氷を扱うかのような、切なく愛おしい愛撫の雨が頬を伝う。
その痛ましいほどの優しさに触れ、私の心臓が甘く震えた。
この人は、どんなに狂気に飲まれそうになっても、どれほど強い情欲に駆られても、私だけは絶対に傷つけないのだ。己の身体を傷つけてでも、私の怯えを取り除き、守り抜こうとしてくれる。
私の前でだけ、こんなにも不器用な一人の男として愛を乞うている。
その事実は、これまでのすべての不安を溶かし去るほどの、絶対的な幸福だった。
「いいえ……老虎」
部屋に満ちる花茶の穏やかな香りが、彼から漂う気配を優しく中和していく。
彼を繋ぎ止めるようにその逞しい首に腕を回すと、私は絶対的な安堵に身を委ね、自らその熱い唇へと吸い込まれていった。
私から与えたわずかな口付けは、すぐに彼によって深く、飢えを埋めるような熱いものへと塗り替えられていく。
掠れた吐息が絡み合い、彼の唇から微かに残る血の味が、私の舌先へと甘く溶け込んでいった。
硬く強張っていた彼の巨体が、私の体温に触れて少しずつ解け、本来のしなやかな熱を取り戻していくのを肌で感じる。
薄絹の夜着が、剣だこのできた大きな手のひらによって音もなく剥ぎ取られた。
冷たい夜風が剥き出しの肌を微かに撫でたのも束の間、すぐに火傷しそうなほど熱く逞しい身体が、私を隙間なく覆い隠す。
皮膚一枚の距離で触れ合う、切ないほどの摩擦。
彼の指先は、私に触れる時だけは、この世で最も壊れやすい硝子細工を慈しむように小刻みに震えていた。
少しでも力を入れれば砕けてしまいそうな私を前に、ひどく臆病に、そして祈るように撫でてくる。
背中を、腰を、そして柔らかな肌の奥をなぞるその痛ましいほどの労わりが、私の中に残っていた僅かな死の恐怖すらも完全に溶かし去っていった。
「鸞……。この命が果てるまで、俺の妻はお前だけだ」
耳の裏に落ちた低く甘い囁きに、背筋をぞくりとした歓喜が駆け抜ける。
至近距離で私を見下ろす彼の瞳は、暗闇の中でも強烈な情熱を帯びていて、私はそのまま彼という深い海へ吸い込まれていく錯覚に陥った。
私がこの人の魂を救い、この人が私のすべてを満たしてくれる。揺るぎない確信が胸を満たす。
互いの命の在り処を確かめ合うように、二つの鼓動が一つに重なり、激しく打ち鳴らされる。
彼の体温と私の体温の境界線が曖昧に溶け合い、指先まで満たされていくのは、圧倒的な弛緩と甘美な痺れ。
精神の深い結びつきが肉体と完全に同期し、私たちはようやく、血と泥の現世から離れ、一対の比翼の鳥となって夜の空へと舞い上がっていく。
外で吹き荒れる乱世の風など、もうこの密室のどこにも存在しない。
私は彼にきつく腕を回し、私だけに向けられる絶対的な溺愛という真っ白な幸福の絶頂の中へと、ゆっくりと視界を沈めていったーー。
◆◇◆
心地よい微睡みのなかからゆっくりと意識が浮上すると、私を包み込んでいるものは、春の陽光のような暖かさと逞しい腕の感触であった。
そっと目を開ければ、寝台の隙間から差し込む柔らかな朝の光が、二人の重なり合う影を白く照らし出している。
すぐ目の前には、私を腕の中に閉じ込んだまま、愛おしそうに見つめてくる彼の瞳があった。
昨夜の獣のような飢えや、死の恐怖に怯える修羅の面影はもうどこにもない。
そこにあるのは、ただ私だけを求め、私だけを愛してくれる一人の穏やかな青年――私の大好きな老虎の貌だった。
私を抱き寄せる彼の胸の奥から、規則正しい心臓の音が聞こえてくる。
その確かな命の鼓動を聞きながら、私は彼の温かな胸にそっと頬をすり寄せした。
乱世の血と泥に塗れた外の世界など、この腕の中には一切届きはしない。
私の髪を優しく梳いていた彼の大きな手が、ふと止まる。
安堵の吐息を長く零しながら、私を強く、かけがえのない宝物のように抱きしめ直すと、彼はぽつりと零した。
「鸞……俺は今……世界で一番、幸せだ」
寝言のように、けれど心の底からの祈りのように呟かれたその切実な響きに、胸の奥が熱く締め付けられる。
幼い頃からただ彼だけを見つめ、彼の片翼でありたいと願い続けた日々の記憶が、温かな涙となって視界を滲ませた。
私は真っ直ぐに彼を見上げ、心からの微笑みを返す。
「私もです……老虎」
胸を満たすのは、深く静かな歓喜。
私たちは身を寄せ合い、この穏やかな朝の光が永遠に続けばいいと願いながら、この上ない幸福のなかへとゆっくりと浸っていった。
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