第59話
厳かな朝議の場は、一瞬にして万物を凍てつかせる氷原へと叩き落とされた。
南宮の正殿――白大理石の床が果てしなく広がる空間の最奥で、俺は黄金の龍袍を纏い、至尊の玉座から眼下の群臣を見下ろしている。
ざわめきすら凍りつく静寂のなか、放たれた刃のごとき声が、広大な堂内へと低く響き渡った。
「――皇統を繋ぐための子は、すでにこの後宮に十分に揃った。故に、余が子作りのために妃と夜を共にすることは、本日を以て終了とする」
それは、渭北の最大軍閥である郭家をはじめ、諸派閥との同盟の証であった閨事の全廃を意味する、皇帝としての冷徹な強権発動にほかならない。
一斉に朝廷が激しく動揺し、渭北派の重臣たちが狼狽に顔を歪ませた。
彼らにとって、娘を皇帝の寝所に送り込み、次なる皇統の血を競わせることこそが権力の生命線であったのだ。だが、俺は絶対的な捕食者の瞳を隠すことなく、ただ一人の女を愚弄した者たちを冷ややかに見据えていた。
「これより、皇后ならびに全妃嬪への渡御は一切中止する。大長秋、今後二度と余の元へ木札を持ち込むな」
(俺のたった一人の女、鸞を『石女』と嘲笑った代償、その身で味わえ)
数日前、謝美人が茶会の席で公然と放った悪意に満ちた泥礫。
それを皇后でありながら後宮の統制の不始末として野放しにし、醜悪な流言を喜んでいた者たちへの、皇帝という権力を使った容赦なき復讐劇の始まりだった。
言い逃れも反論も許さぬ息苦しいほどの空気が正殿を支配するなか、俺は玉座からゆっくりと立ち上がる。未だ恐怖に震える百官を置き去りにし、冷徹な足音を響かせてその場を後にしようとした。
回廊へと足を踏み出そうとした背中に、堪えきれないといったような野太い声が投げかけられる。
「――お待ちくださりませ、陛下!」
振り返れば、熊のような巨躯を重厚な毛皮で包み、煌びやかな金装飾をジャラジャラと鳴らしながら進み出る男の姿があった。
渭北派の領袖であり、皇后の父である郭昌だ。
「皇后や妃たちへの渡御を全廃するなど、前代未聞にございます。そのようなことをされては、我が娘である皇后や、渭北から輿入れした妃嬪たちの面目はどうなるというのですか!」
己の権力の生命線を絶たれかねない焦燥からか、その顔は赤黒く上気している。
ゆっくりと足を止め、氷の如き視線をその欲深き男の両目へと突き刺した。
「……面目、だと?」
大理石の床を低く幾重にも這うような声に、郭昌の巨躯がビクリと震える。
「皇后の責務とは、後宮を厳格に統制し、内廷の平穏と品位を保つことであるはずだ。だが、現実はどうだ」
冷え切った堂内を見渡し、居並ぶ渭北派の官僚たち一人一人を射抜いてゆく。
「先日の茶会において、下劣な側室が醜悪な言葉を公然と口走り、妃の尊厳を泥で汚した。そのような悪意と流言を野放しにしているのが、現在の後宮である。秩序すら守れず、統制の不始末を露呈した者に、いかなる面目があるというのだ」
それは、愛する鸞を傷つけた者たちへの、皇帝という絶対的な権力を用いた冷酷な処刑宣告に等しい。
「己の足元すら治められぬ者に、余の夜を乞う資格はない」
「へ、陛下、それは……っ。たかが女どもの些末な口論を理由に、皇統に関わる渡御を中止するなど……」
「たかが、だと? 皇后としての責務を果たせぬ瑕疵を、余に押し付ける気か、郭昌」
言い逃れを一切許さない法となって、言葉が群臣の頭上から降り注ぐ。
郭昌はパクパクと口を動かすものの、己の娘の失態を理路整然と突かれた以上、それ以上の反論を紡ぐことは叶わない。脂汗を流して平伏するしかなかった。
(これがお前たちの望んだ権力闘争の結果だ。お前たちの野心など、鸞の流した涙一滴にも値しない)
完全に息の根を止められた渭北派の絶望的な沈黙を背で受けながら、俺は今度こそ振り返ることなく、修羅の冷たさを纏って正殿を後にした。
◆◇◆
群臣を震え上がらせた朝議の後も、胸の内で渦巻く修羅の炎が消えることはなかった。近侍すら恐れをなして遠巻きにするほどの殺気を纏ったまま、膨大な政務を片付け終える頃にはすっかり夜の帳が下りている。
冷たい夜風を切り裂くようにして忌々しい足取りで向かった先は、皇后の住まう椒房殿。重厚な扉を抜けると、むせ返るような濃厚な香油の匂いが澱みのように立ち込めていた。
定例の夕食のために足を踏み入れた俺の鼻腔を、そのひどく人工的で甘ったるい香りが容赦なく突き刺す。ただでさえ冷え切っている胸の奥に、明確な生理的嫌悪が這い上がってきた。
「――陛下っ!」
部屋の奥から、豪奢な衣を纏った皇后・郭聖通が転がるように駆け寄ってくる。
朝議での渡御全廃の決定をすでに聞き及んでいたのだろう。美しく整えられていたはずの顔は屈辱と絶望で見る影もなく歪み、目からは大粒の涙がとめどなく溢れ落ちていた。
「どうしてですか……っ! 私が至らぬと言うなら改めます! なのに、なぜ私からすべてを奪うのですか! 私は、私はあなたの妻ではないのですか……っ!」
龍袍の袖にすがりつき、ヒステリックに泣き叫ぶ女。
だが、この瞳に微塵の同情も湧くことはない。凍てつくような氷の眼差しで見下ろし、俺はすがりつくその手を冷酷に振り払った。
「……妻、だと?」
冷ややかな声に、彼女の青白い唇がガタガタと震え出す。
「思い違いをするな、聖通。かつて渭北で盟約を結んだ夜、余は貴女に明確に告げたはずだ。『私の妻は、故郷に生涯を誓った娘、ただ一人。貴女を傍に置くことを許すことはあっても、決して心の内側へ踏み込むことは許さない』と」
「あ……あぁ……っ」
「余が貴女を抱いたのは、形式上皇統を繋ぐという皇帝としての責務を果たすためだけのもの。そこに情など一欠片も存在したことはない」
過去の冷酷な契約という氷の楔を突きつけられ、郭聖通は糸が切れたようにその場に崩れ落ちる。
だが、俺の断罪は終わらない。愛する者を『石女』と侮辱するような真似を許し、それを陰で嘲笑っていたこの女の虚栄の冠を、完膚なきまでに打ち砕かねばならなかった。
「貴女が皇后の座にふんぞり返っていられるのは、本来その座に座るべき余の唯一の妻が、余の立場を守るために自ら身を引いたからに過ぎない」
「ちが……違います、私は、私は妻として……っ!」
「貴女は『皇后』という位にいるだけで、私の妻ではない」
息の詰まる香油の匂いを切り裂くように、俺は冷ややかに、だが何よりも神聖な絶対の真実として言い放った。
「私の妻は、今も昔も、故郷で生涯を誓った鸞ただ一人だ」
その至尊の断罪が、彼女の存在意義を根底から粉砕する。
床に頽れ、絶望のあまり声を失った郭聖通を見下ろす胸に、憐れみなど微塵も湧かなかった。ただ、この薄暗く人工的な甘さに満ちた空間がこれ以上なく不快なだけだ。背を向け、大長秋たちが控える冷えた回廊へと一歩を踏み出す。
「――お前たちに、余から最後の忠告だ」
足を止めることなく、凍てつく声を暗がりに置き去るように投げかけた。
「私の唯一の妻を侮る刃は、そのままお前たちの首を撥ねる刃となる。二度と俺の逆鱗に触れるな」
背後から聞こえる郭聖通の嗚咽とも悲鳴ともつかぬ声を黙殺し、俺は椒房殿を後にする。
重厚な門扉が閉まる音とともにむせ返るような香油の匂いが遮断され、冷涼な夜気が肌を刺した。深く息を吸い込むと、肺腑に残っていた澱みがようやく消えていくようだった。
◆◇◆
そうして己の身を清めるように冷たい夜気で満たし、夜の帳が下りた宮城の中をただ一途に、愛しい者が待つ後宮の奥深くへと歩を進める。
そこには権力への野心も、他者を排斥するための醜悪な陰謀もない。ただ、俺という一人の男を全霊で愛し、すべてを優しく包み込んでくれる、あまりにも純粋な光だけがあった。
(鸞……待っていろ。お前を怯えさせるすべての闇は、俺がこの手で切り裂いてやる)
胸の奥で渦巻く狂おしいほどの独占欲と、彼女を守り抜くという絶対の決意が、冷え切っていた身体を内側から熱く焦がしていく。
百官を震え上がらせ、皇后の誇りを踏みにじった覇王の顔はそこにはない。
ただ一人の最愛の妻の元へと帰る、情熱と飢餓感に突き動かされた一人の男の足音が、静まり返った回廊に低く響き渡っていた。
最後まで読んでいただきありがとうございます!
*ちょこっと雑談*
これで第三部終了です。
明日から第四部、劉彪と陰鸞にさらなる試練が待ち受けています。
ぜひ明日から始まる第四部をお楽しみください!
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また明日19:00にお会いしましょう!




