第58話
帝都・洛華の夜は、息が詰まるほど凍てつくような静けさに沈み込んでいる。
南宮の奥深くにある寝所には、昼間の茶会で浴びせられた冷笑が澱んだ空気のように重くまとわりついて離れない。
白粉を叩かなくとも真っ白な肌は、夜の闇のなかでどこか病的に透き通り、伏せた長い睫毛が不確かな未来に怯えるように微かな震えを帯びていた。
(……これだけが、私という存在を繋ぎ止めるものだったのに)
ふいに寝所の重厚な扉が音もなく開かれ、室内の空気が一瞬にして重く張り詰める。
人払いを済ませた暗闇の向こうから、地響きのような足音を立てて近づいてくる巨大な影。
そこに立っていたのは、いつものように少し離れた場所から気遣ってくれる、穏やかな瞳の陛下ではなかった。威厳ある龍袍を纏ったその姿――天下を統べる龍の威圧感と、牙を剥き出しにした捕食者としての気配を漂わせた、絶対的な覇王の立ち姿。
纏った衣からは、都の冷たい夜風の匂いと、執務室からそのまま引きずってきたような焦燥に満ちた微かな鉄の匂いが漂う。
獲物を逃さない猛獣のごとき一点の光も通さぬ真っ暗な双眸が、寝台の上の私を静かに、だが確実に射すくめてくる。異様なまでの熱と絶対的な拒絶すら孕んだ修羅の眼差しに、胸の奥がドクンと激しく跳ね上がり、本能的な畏怖が喉元を締め付けた。
「……陛下? 今夜は、公務の木簡を改める日では……」
震える声を絞り出し、寝台の上で身を固くする。だが、私の紡ぐ臣下としての言葉など一切耳に届いていないかのように、彼はただ真っ直ぐに、冷酷なまでの速度でこちらへと歩み寄ってくるばかりだ。
(何かが、決定的に壊れようとしている……っ)
引き返せない嵐がすぐ目の前に迫っているという破滅の予感に、指先が氷のように冷たくなってゆく。ただ目の前に迫る猛々しい老虎を見つめることしか、私にはできなかった。
無言のまま距離を詰めたその手が、逃げ場のない肩を唐突に、だが決して骨を砕かぬ程度の冷徹な力で掴み寄せる。
「あっ……!」
短く息を呑む間もなく、視界が大きく反転した。
ドスンと重い衝撃とともに、寝台の奥深くへと強引に押し倒される。激しい動きに硬い木枠が軋んだ音を立て、淡い紅梅色の絹衣が無惨に乱れて素肌が夜の空気に晒されていった。
「陛下……っ、おやめください!」
のしかかってくる巨大な影に怯えながら、震える両手でその分厚い胸板を必死に押し返そうともがく。
「私たちは、最後の一線だけは越えないと……そう、お誓いになったはずです!」
それは、単なる肉体の拒絶ではない。
ここでこの腕を受け入れてしまえば、私はもう数多いる側室の一人でしかなくなってしまう。あの暖かな故郷の陽だまりで結んだただ一つの絆を、彼自身の手で穢されることだけはどうしても耐えられない。それは私という存在のすべてを失うことと同義なのだから。
だが、組み伏せてくる黒い瞳の奥には、ただ血を吐くような悲痛な色だけが濃く滲んでいる。
「その誇りが……お前を俺から永遠に遠ざけてしまうっ」
地を這うような、絞り出すような低く掠れた声が寝所の冷たい空気を震わせる。
同時に、必死に抵抗を試みていた細い両手首は大きな手によってあっけなく捕らえられ、頭上の寝台へと容赦なく縫い付けられてしまった。
「嫌……離してください……っ」
いくら身を捩ろうとも、圧倒的な腕力と天下を統べる覇王の重圧の前では、女の力など嵐の前の笹舟のように無力でしかない。暴れるたびに衣擦れの音が虚しく響き、手のひらから伝わる焼け焦げるような熱だけが、冷え切った肌に深く刻み込まれてゆく。
命懸けで守り抜こうと握りしめていた最後の約束。それが、どうしようもないほどの狂おしい熱情によって理不尽に砕かれようとしていた。
「いや……っ、どうか、お約束を――んっ!」
悲痛な抗議の言葉は、容赦なく落ちてきた熱い唇によって完全に塞がれる。
それは単なる暴力的な蹂躙などではない。壊さぬように慈しむ優しさと、もう二度と己の側から逃がさないという狂おしいほどの執着。その二つが入り混じった、深く息を奪い尽くす口づけ。
「ん、あ……ふっ……」
頬を伝い落ちる絶望の涙を、焼け焦げるような熱い舌先が掬い取るように舐め上げる。微かな塩気と玄衣から香る冷たい夜の匂いが混ざり合い、逃げ場を失った思考をクラクラと麻痺させてゆく。
無惨に剥ぎ取られた紅梅色の絹衣が寝台へと滑り落ち、白磁のような素肌が空気に晒されたのも束の間。武骨な剣だこを持つ分厚い手が肌を這うと、まるで火の粉を押し当てられたような強烈な熱が、全身の皮膚を粟立たせながら駆け巡った。
(ああ……これで、私は)
二人だけを特別に繋いでいた見えない境界線が、圧倒的な熱に当てられて音を立てて崩れ去ってゆく。
「鸞……俺の、鸞……っ」
耳元で掠れた獣のような吐息が零れ、熱い腕が逃げ場のない身体を分厚い胸板へと深く抱きすくめる。
悲鳴のような抗議は、再び降ってきた深く甘い口づけによって完全に溶かされていった。決して越えてはならなかった境界線が踏み躙られる瞬間。引き裂かれるような鋭い絶望と、それを塗り潰すほどの狂おしい愛執が同時に心を貫いていく――。
◆◇◆
(……すまない)
白磁のように真っ白な頬には、乾きかけた涙の痕が痛々しく残る。
俺は小刻みに震える己の太い親指を伸ばし、その目尻の濡れ目を慈しむように優しく拭った。
あたたかな故郷で結んだただ一つの誓い。互いの誇りを守るため、どれほど喉が干上がろうとも決して越えずに耐え抜いてきた最後の境界線を、ついにこの手で無惨に踏み荒らしてしまったのだ。
愛しい胸の内に広がる、裏切られた絶望と悲痛な虚無感。
それが痛いほど伝わってくるからこそ、胸の奥底が切り刻まれるような激痛に苛まれる。
(お前の誇りを永遠に汚したこの俺を、生涯許さなくていい。いくらでも憎んでくれ)
だが、決して後悔はない。
昼間の茶会で浴びせられた『石女』という卑劣な言葉。七出の法を盾に、最愛の存在を後宮から追放し、俺の側から永遠に引き剥がそうとする渭北の獣どもの悪意。
『子なき妃』という過酷な烙印を押されたままでは、いずれ彼女はこの血塗られた檻から追い出されてしまうのだ。
身を削るような自制が、かえって愛しい女を遠ざける刃になっていたのなら。俺が修羅となり、たとえ死ぬほど憎まれようとも、強引に我が子という絶対の盾を与えるしかない。
(お前を俺の側で生かすためなら……俺は何度でも鬼になり、お前を泣かせてしまう)
やがて御簾の隙間から滑り込んできた白み始めた夜明けの青い光が、寝台の二人を密やかに照らし出してゆく。
結ばれたはずの肉体とは裏腹に、二人の魂の間に決定的な暗い溝が刻まれたことを肌で感じながら。俺は朝の冷気から一番大切なものを隠すように、固くその華奢な体を抱き締め続けていた。
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