第57話
洛華へと帰還して、月日が流れた。
南宮に続く長く豪奢な回廊を歩くたび、鼻の奥にへばりつくような、むせ返るほど重く甘い香油と白粉の匂いが私の肺を満たしていく。
過酷な戦野で風に吹かれていた陣中での日々が、まるで遠い幻のように感じられた。あそこには土埃と鉄の冷たい匂いしかなかったけれど、幾重もの悪意ある視線から隔離された確かな安息があったのだ。
だが今の私を包み込んでいるのは、煌びやかな金装飾の裏でどす黒い欲望が渦巻く、後宮という逃げ場のない檻の空気に他ならない。
「……ご覧なさい、またあの女が出歩いておられるわ」
「毎夜のように陛下を独占しておきながら、一向に御子の気配もないとは。厚顔無恥にも程がありますこと」
すれ違う妃嬪や宮女たちが、衣擦れの音に紛れさせて棘のある囁きを交わしてゆく。伏せられた扇子の陰から向けられるのは、容赦のない冷笑と射抜くような視線であった。
現在の後宮は完全に渭北派の絶対的な支配下に置かれている。
郭皇后には第二皇子・劉輔様とさらに靖都遠征中に誕生した第三王子・劉康様が健やかに育っておられ、さらには郭様の手足となって動く謝美人も、皇女である劉華様をもうけている。皇統に連なる子を産んだ者だけが権力を握るこの場所で、その他の妃嬪たちは嵐に怯える小鳥のように息を潜めて生きるほかなかった。
その中で、私は最も異端であり最大の敵意を集める標的である。
子を成さぬ存在でありながら、陛下から夜ごと寝所へと召し上げられる側室。彼女たちの目に映る私は、皇后様の地位を脅かし、夫の寵愛を不当に貪る存在なのだろう。
私と彼の間には、『一線を越えない』という清い結婚の密約がある。
夜ごとに彼の温かな腕の中に抱かれながらも、互いの矜持を守るために決して最後の一線は越えない。だからこそ子ができないのだという真実を、この悪意の海の中で叫ぶことなどできるはずもない。
私が沈黙を貫くことが、彼を暴君にしないための唯一の盾なのだから。
息の詰まるような精神的圧迫感の中、私はゆっくりと長い睫毛を伏せ、冷たい石畳の上を真っ直ぐに歩み続けた。どれほどの言葉の石礫を浴びようとも決して顔色を変えず、己の内に秘めた誇りだけを固く抱きしめながら。
うららかな午後の陽光が降り注ぐ後宮の広大な庭園へと足を向けると、豪奢な天幕の下には金糸の刺繍が施された敷物が敷き詰められ、諸妃が集う茶会が催されていた。
重厚な毛皮を羽織り、髪に煌びやかな金細工を揺るがす渭北の妃嬪たちが集うその輪の中へ、淡い紅梅色の絹衣を纏った私が足を踏み入れた瞬間、さざめくような歓談の声が不自然にピタリと止む。
一瞬の静寂の後、扇子越しに交わされる冷ややかな視線。
それはまるで見えない無数の刃が一斉に私の喉元へと向けられたかのような、息もできないほどの圧迫感であった。
「――陰貴人、長きにわたる陣中でのお疲れは、いくらか癒えましたか?」
高価な白磁の茶器が触れ合う澄んだ音とともに、妃嬪の一人が優雅に微笑みかけてくる。だが、その声の底にはねっとりとした嘲笑がこびりついていた。
「血と泥に塗れた戦場のようなむさ苦しい場所へ、女がしゃしゃり出るなど……さぞや恐ろしい思いをされたことでしょう。私たちはこうして洛華に留まり、御子たちの健やかな成長をお守りするという『妃としての尊い務め』がございましたから、そのような場所へ赴くわけにはまいりませんでしたけれど」
彼女の言葉に同調するように、周囲からクスクスという衣擦れの音と忍び笑いが漏れる。
自分たちは皇統を継ぐ子を育てている立派な母親であり、子も成さずに戦場へついて行った私は、男の寵愛にすがりつくしか能のない不躾な女であると。表面上は労いを装いながらも、それは明確に私の存在意義を削り取るための残酷な言葉の石礫であった。
卓に置かれた花茶の甘い香りが、胃の腑を不快に掻き回す。
だが私は伏せていた長い睫毛を静かに上げると、決して声の震えを見せることなく柔らかな笑みを浮かべて口を開いた。
「ご案じいただき感謝いたします。陛下の御威光の下、無事に天下が平定されたことこそが、私にとっては何よりの癒やしにございます」
ここで私が少しでも傷ついた素振りを見せたり、怒りに任せて言い返したりすれば、それはそのまま『嫉妬』という咎になり、七出の法に触れる口実を彼女たちに与えてしまう。
私の失態は、私を寵愛する陛下の名誉に泥を塗ることに他ならない。愛する人を守るために、私はどんな毒を盛られようとも、この冷たい後宮で完璧な淑女としての気高い仮面を被り続けなければならないのだ。
膝の上で、爪が食い込むほど固く指先を握り締めながら、私はただひたすらに孤独な防衛戦を独り耐え忍んでいた。
やがて茶会が終盤に差し掛かり、庭園に満ちていた甘い花茶の香りが次第に淀んだ空気を帯び始めた頃。
私の静かで隙のない受け答えに焦れと苛立ちを隠せなくなった者が一人、口を開く。郭皇后と近しい謝美人だ。
彼女は私の好む淡い色の衣を真似たような装いを纏っているが、その瞳の奥には隠しきれない嫉妬が渦巻いていた。彼女は手元の扇子を広げると、紅を引いた唇を歪めて言い放つ。
「陰貴人は、陛下に毎夜愛されていると随分と自慢げですが……」
ピタリと、周囲の衣擦れの音が止まる。
「いくら夜伽の相手として重宝されようとも、結局のところ、卵を産めない雌鳥は、いずれ鍋にされるだけですよ?」
――石女。
それは子を成すことこそが女の絶対的な価値とされるこの後宮において、女の存在そのものを根底から否定し、排除する最も暴力的な言葉であった。
『七出』の法が定める『子なきは去る』という絶対的な正義。それを大義名分として振りかざす謝美人に対し、周囲の妃嬪たちはもはや扇子の裏で隠すこともなく、嘲笑を一斉に漏らし始める。
容赦なく突き刺さるあざけりの声。
私は膝の上で、自身の指先が氷のように冷たくなってゆくのを感じていた。決して震えを見せぬよう、両手をきつく交差させて握り締める。耐え忍ぶために奥歯を強く噛み締めると、口内に微かな血の味が滲んだ。
私と彼との間にある繋がりは決して、あなたたちの言うような浅ましいものではない。
夜の闇のなか、彼が自身の指から血を流してまで守り抜いてくれている『清い結婚』の誓い。互いの矜持を守るためにいまだ最後の一線だけは越えていない。それゆえに子ができないのだという真実を知るのは、この世で彼と私だけだ。
この悪意に満ちた泥沼の中で、私は彼から与えられたその誇りだけを唯一の心の支えにしていた。私と彼が晶陵の陽だまりで結んだ一夫一婦の魂の誓いは、こんな卑劣な言葉の刃で切り裂かれるほど脆くはない。
私は、伏せていた長い睫毛をゆっくりと持ち上げた。
嘲笑に歪む彼女たちの顔をまるで自分とは無関係な遠い景色のように見つめ、怒りも悲しみも屈辱すらも一切表情に出さず、ただ静かに背筋が凍るほど気高く微笑み返す。
何も言い返さない。
ただ圧倒的な品格を以て語りかけるようなその笑みに、謝美人の顔からスッと血の気が引く。己の放った毒刃が全く通じていないという事実に、彼女の手の中で扇子が惨めな音を立てて握り潰された。
◆◇◆
同じ夜、深い静寂に包まれた南宮の執務室。
分厚い竹簡の山に囲まれた俺は手元にある薄緑色の青磁の杯を見つめたまま、御簾の奥から潜み声で語る隠密の報告を無言で聞き入っていた。
『――謝美人は多くの妃嬪が囲む茶会の席で、陰貴人様に向かって公然と言い放ちました。「卵を産めない雌鳥は、いずれ鍋にされるだけだ」と』
「…………」
『陰貴人様は周囲からの嘲笑を浴びながらも一言も反論なさいませんでした。ただ静かに気高く微笑み返して沈黙を貫かれたとのことです』
報告が終わった後も、執務室には恐ろしいほどの静寂が横たわっている。
ただ、俺の胸の奥底でどす黒く燃え盛る業火が音を立てて渦を巻き始めていた。
俺が『清い結婚』などという甘い夢を許し、彼女の誇りを守ろうとした結果がこれか。
夜ごと俺の腕に抱かれながらも、最後の一線だけは越えずに朝を迎える日々。彼女の矜持を守るための俺の身を削るような自制が、結果として後宮という悪意の檻の中で、彼女に『石女』という最も残酷で恥辱に満ちた烙印を押す凶器となってしまったのだ。
七出の法を盾に俺の最も愛する女を公然と嬲り、社会的に抹殺しようとする渭北の女たちの薄汚い嘲笑。それに反論することすら許されず、一人で言葉の石礫に耐え忍ぶ彼女の氷のように冷たくなった指先を想像し、俺の五臓腑がギリギリと捩れ上がる。
「……卵を産めない、雌鳥だと?」
低く地の底を這うような俺の呟きと同時に、パキィンッ! と鋭く乾いた音が執務室に響き渡った。
俺の右手に握られていた青磁の杯が、込められた強烈な圧力に耐えきれず粉々に砕け散った。鋭利な破片が掌の皮膚に深く食い込み、生温かい血がポタポタと冷たい床へと滴り落ちる。だがそんな痛みなど、彼女が茶会で受けた胸を抉られるような屈辱に比べれば無に等しかった。
これ以上、あの気高い誇りを泥で汚されることは俺が許さない。
掌から溢れる朱色の血を見つめながら、俺の瞳から感情という感情が消え失せ、冷酷な光が宿ってゆくーー。
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