第56話
秋風が吹き付けるたび、俺の纏う冷たい甲冑の隙間から容赦なく体温が奪われてゆく。
だが、それ以上に俺の身体を芯から凍えさせているのは、少し離れた場所から見つめる彼女の姿。その視線の先、夕陽に赤く燃える水際のほとりにたったひとりで佇む、華奢で孤独な背中に他ならなかった。
夕焼け空を、一対の白鷺が身を寄せ合うようにして飛んでゆく。
――あの日、晶陵の瑞々しい河のほとりで、無邪気に笑い合う彼女とどこまでも寄り添って飛べると信じていた、あの頃のつがいの姿そのものであった。
偽帝を討ち、数多の敵を血の海に沈めることで、俺はついに天下を平定しこの絶対的な玉座を手に入れた。だが、最強の覇者となったはずのこの血塗られた手で彼女を抱きしめ、権力という檻で囲い込んだ結果が、あの哀しげでひどく小さく見える背中だというのか。言葉を交わさずとも、痛いほどに伝わってくる。彼女もまたあの無垢な鳥たちを見上げながら、永遠に失われた純真な日々に思いを馳せているのだということが。
無意識のうちに泥土を踏み締め、彼女の華奢な肩へと静かに手を伸ばす。その細い体を後ろから抱きすくめ、「俺がいる」と囁いてやりたかった。だが、指先が風に揺れる絹衣に触れる寸前で俺の手は空を切り、凍りついたように止まってしまう。
(俺に、その資格があるというのか)
喉の奥に硬い石を飲み込んだかのように塞がり、慰めの言葉一つすら絞り出すことができない。
あの純白の鳥のように、ただ二人だけで清らかな空を飛ぶことなど俺たちにはもう永遠に叶わないのだ。俺の纏う至尊の重圧はあまりにも血と泥に塗れすぎており、それに触れれば彼女の無垢な羽までをも同じように汚し、洛華の後宮という泥沼へ引き摺り下ろすことしかできないのだから。
深く愛おしく思えば思うほど、俺が抱える天下の重みがかえって容赦なく彼女の小さく脆い肩を押し潰してゆく。天下の覇者として君臨しながら、ただ一人の愛する女の素朴な笑顔すら取り戻してはやれない。己の凄惨な無力さに、胸の奥が千切れるほどの痛みが込み上げた。
伸ばしかけた手をゆっくりと下ろし、行き場のない己の業を握り潰すように、俺はその拳を強く固く握りしめる。彼女の背中に触れることすら許されない究極の孤独と、取り返しのつかない諦念。それを互いに無言で共有しながら、俺はただ立ち尽くし、彼女と同じ黄昏に沈む茜色の空を静かに見上げていた。
数日後。天下を平定した遠征軍は、帝都・洛華への輝かしい凱旋を果たした。
天を衝くような数万の民衆の歓声と、打ち鳴らされる銅鑼の音が帝都の空をびりびりと震わせる。沿道からは色とりどりの花吹雪が舞い散り、熱に浮かされたような民衆の波が、新たなる覇王の誕生を熱狂的に叫び続けていた。
だが、馬上に跨る俺の耳には、その鼓膜を破らんばかりの歓喜の声すら、二度と解けぬ暗い呪詛となって重く突き刺さってくる。
視界の先には、冷たくそびえ立つ洛華の巨大な城門が、黒々とした闇の顎を開けて待ち構えている。
俺と鸞から永遠に自由を奪い、死ぬまで閉じ込める冷酷な鉄の檻。どれほど華やかな凱旋であろうとも、俺にとっては愛する女を自らの手で死地へと引き摺っていく残酷な行進に他ならなかった。
剣で敵を斬り伏せる、単純な血の戦いは終わった。だが、ここから始まるのは、刃の通じない陰湿な悪意との果てしない戦い。郭聖通をはじめとする渭北の獣どもが、再びあの暗い毒の沼で鸞を狙って牙を研いでいるのだ。俺が覇王として光り輝けば輝くほどその濃い影となって、彼女の背には謂れのない嫉妬と怨嗟が降り注ぐ。
(この巨大な檻の中で、お前の息の根が止まらぬよう……俺が必ず守り抜く)
背後を進む分厚い御簾に覆われた馬車を振り返り、俺はギリッと奥歯を噛み締める。
(そのためなら、俺は天下の誰から憎まれようとも、どんな血に飢えた鬼にでもなろう)
やがて重々しい地響きとともに、巨大な鉄の扉が俺たちを完全に飲み込み、二人の背後で無慈悲に閉ざされてゆく。
天下統一という至高の偉業の達成は、皮肉にも、愛する女を最も過酷で凄惨な試練の渦中へと引き摺り込む、絶望的な檻の幕開けであった。
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