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【完結】比翼の乱世:老虎と鸞鳥の契り  作者: 深山 凛
◆第三章◆

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第54話

突風が乾いた音を立て、砂塵の舞う荒野を駆け抜けてゆく。


天下を統べるための最後の遠征――蜀峡(しょくきょう)の靖都(せいと)へと向かう道のりは、地平の彼方まで黒々と連なる兵士たちの列によって果てしなく埋め尽くされていた。むせ返るような鉄と馬の汗の匂いに加え、幾万もの軍靴が泥と砂を踏み鳴らして巻き上げる土埃が視界を真っ白に染め上げるなか、その無機質で血生臭い行軍の最中央を、厳重な近衛兵の厚い防壁に何重にも守られた一台の馬車が進んでゆく。


その時、突如として吹き荒れた強風が、馬車の重々しい天鵞絨の御簾を大きく跳ね上げた。


一瞬の空白。

汗と泥に塗れた屈強な兵士たちの視界へ、後宮の奥深くに固く秘匿されていたはずの存在が白日の下に晒し出される。

風に細く舞う艶やかな漆黒の長髪に、血生臭い戦野にはおよそ不釣り合いなほど白磁のように滑らかな肌。そして何より、周囲の殺伐とした騒音を一瞬で凪がせるような、深く澄んだ琥珀色の大きな瞳。




地鳴りのように響いていた幾万の足音が波が引くようにしてピタリと止み、ゴクリと幾重もの喉が鳴る音が乾いた空気を震わせると、数万の男たちが一斉に息を呑む気配がした。




泥と鉄に塗れた死地を進む兵士たちの視線が、吸い寄せられるように一点へと釘付けになる。


白粉のいらない真っ白な肌と、風に揺れる漆黒の髪。あまりに浮世離れした清らかで儚げなその佇まいは、血と泥に塗れた男たちの眼にはかえってこの世の理を狂わせる傾国の幻影のようにすら映ったのだろう。彼らの瞳の奥に揺らめき始めていたのは、畏怖とともに名状しがたい不穏な熱。




「……御簾を戻せ。すぐにだ」




馬上から冷酷な声を放ち、俺は近衛に命じて瞬時にその光を遮断させる。

手綱を握る拳に血が滲むほどの力を込めながらも、俺は陣内に伝播していく言葉にならない異様な熱気と地を這うような不穏なさざめきを、肌を刺すような空気として敏感に感じ取っていた。




「おい、見たか……いまの……」




「まさか、本当に女を乗せておられたとは……」




「あんな凄まじい美人がお側にいては、陛下がお狂いになるのも無理はない……」




列の端から端へと、刃のように鋭い囁きが波紋となって広がってゆく。

その不穏なざわめきを耳にするたび、手綱を握りしめる俺の指先に激しい痛みが走るのだ。誰の目にも触れさせたくない、俺だけの腕の中に閉じ込めておきたいという昏い情念が奥歯を噛み締める口内に鉄の味を広げていくなか、全軍を支配するざわめきの鋭さを肌で感じながらも、俺はただ前だけを見据えて馬を進めるほかなかった。


ただ彼女を、この手で完全に守り抜く。その歪んだ執着だけが、鉄の匂いに満ちた荒野のなかで狂おしく燃え上がっていた。




◆◇◆




行軍が蜀峡の険しい山脈の麓へと達し、本陣が設営される頃には、周囲はすっかり夜の帳に包み込まれていた。

やがて血生臭い軍議の灯火が消え、幾重にも近衛兵が厳重に周囲を固める皇帝の幕舎へと戻り、分厚い鉄の胸当てを外して肩の金具を解き放つ。ガチャリと硬い金属音を立てて甲冑が敷物に落ちるたび、皮膚にこびりついていた冷たい汗と疲労が少しずつ引き剥がされていくのを感じた。


洛華(らくか)の宮殿に充満していた脂粉の嫌な匂いも陰湿な視線の気配もなく、薄暗い灯火の下で俺の帰りを静かに待つ鸞(ルァン)がいた。

武官服の襟を寛げ、吸い寄せられるように歩み寄ってその後ろ姿をそっと抱きすくめれば、腕の中にすっぽりと収まる彼女の髪から、かつて晶陵(しょうりょう)の陽だまりの中で嗅いだものと同じ、滑らかな絹と淡い花茶の香りがふわりと鼻腔を掠める。衣服越しに伝わってくる切ないほどの微熱を肌で感じ取った瞬間、俺の胸の奥底を支配していた冷酷な君主の仮面が音を立てて崩れ去っていく。




「……鸞……」




華奢な肩口に顔を埋めて深く息を吸い込めば、他宮での政治的な義務に塗れ、いくら冷水で身体を清めても決して消えることのなかった己への強烈な嫌悪感が、彼女の清らかな香りに包まれることでみるみるうちに洗い流されてゆく。


凄惨な戦場の中心に設えられた、布一枚で隔てられただけの狭い空間を満たすのは、懐かしい花茶の香りと彼女の柔らかな体温のみ。他の妃嬪たちの脂粉の匂いも、暗い謀略を囁く声も、ここには何一つ届きはしない。ただ不器用に身を寄せ合うひとつの鼓動と互いの呼吸の音だけが、薄暗い布の内で優しく重なり合っていた。


幕舎の外からは凍てつく夜風が揺らす布の羽ばたきと、時折響く歩哨たちの硬い足音が聞こえてこようとも、外側の世界がどれほど残酷な地獄であろうとも、この腕の中の静謐さだけは絶対に誰にも侵させない。背中に額を押し当て、俺はただひたすらにその温もりへと縋り付く。


夜の静寂がさらに深まり、遠くで響く篝火の爆ぜる音さえも途絶えた頃。俺は鸞を背後から包み込むようにして、野戦用に組まれた硬い革張りの寝台へと身を横たえる。

背中に密着する彼女の滑らかで温かい体温と、外の世界の冷気を纏った俺の武骨な身体。皮膚一枚を隔てて伝わってくるその圧倒的な熱の差に、俺の理性を縛り付けていた鎖がギリギリと軋み始めた。




「……鸞」




ひどく掠れた声が、自分のものではないように響く。

俺は彼女の背に顔を寄せ、その漆黒の柔らかな髪を愛おしむようにそっと撫で下ろした。それから震える指先で衣の襟元に触れ、ほんのわずかにその絹を寛げる。露わになった白磁のうなじへ、俺は火傷しそうなほど熱い口づけを落とした。




「……っ」




彼女の華奢な肩が、甘い吐息とともに小さく跳ねる。

その白梅のような香りに酔いしれながら、俺は執拗に、祈るように、うなじから肩口へと濡れた唇を這わせてゆく。滑らかな肌を愛おしむように撫で上げるたび、彼女の甘やかな体温が俺の指先から身体の芯へと直接流れ込んでくるようであった。




「ここにいる間だけは、俺はただの『彪(ヒョウ)』だ……鸞」




耳元で苦しげに囁きながらさらに深くその首筋へと顔を埋めれば、薄い衣を押し開いて荒い肌を直接彼女の体温へと重ね合わせたい衝動が、身体の奥底から激しく突き上げてくる。

触れてはいけないと分かっているのに、触れずにはいられない葛藤。全軍を率いる龍としての理性が、その皮膚の温もりに触れるたびに一つ、また一つと音を立てて削り取られてゆく。


だが、俺たちはあの洛華で一線を越えないという密約を交わしている身であり、これ以上指先を滑らせてしまえば、彼女が血を吐くような思いで守り抜いてきた気高い矜持を、俺自身の濁った欲望で無残に押し潰してしまうことになる。引き裂かれるような胸の痛みに、熱を帯びた指先が小さく震えた。




「……君にこれ以上触れれば、俺を抑えられなくなる」




ギリッと奥歯を砕けんばかりに噛み締め、行き場のない情動を握り潰すように強く握り込んだ拳。爪が掌に深く食い込み、微かな鉄の味が滲むほどの鋭い痛みだけが、かろうじて俺を正気に繋ぎ止めていた。




「……陛下……っ」




振り返ることなく俺の腕へそっと重ねられたのは、鸞の震える小さな手。

その指先から伝わる切ないほどの熱と、痛いほどに重なり合う互いの激しい心音が、衣服越しに限界まで熱を共有し合う。身を焦がすような焦燥感と息苦しいほどの静寂だけが、二人きりの夜を深く、そして濃密に支配し続けていた。


やがて夜の深い昂ぶりが静かに引き、腕の中で安心しきったように微かな寝息を立てる鸞の穏やかな寝顔を、俺はただ愛おしく見つめ続ける。

この歪で甘やかな二人きりの新婚旅行が永遠には続かない砂上の楼閣であることを、誰よりも俺自身が一番よく知っているからこそ、この一瞬を永遠に刻み付けたかった。


夜明けの冷たい朝霧が幕舎の隙間から忍び込み、二人の肌を包んでいた密室の微熱を容赦なく奪い去ってゆく。

遠く地平の彼方からドオンと腹に響く太鼓の音が地鳴りのように地表を揺らせば、兵たちが武具を打ち合わせる音や馬の嘶きが、白み始めた朝霧を鋭く切り裂いていった。




(最後の敵地――靖都を落とせば、天下は統一される)




それは皇帝として、劉家の男として、生涯を懸けて追い求めてきた至高の偉業に他ならない。

だが、その全平定の瞬間は、同時にこの布幕に守られた小さな密月の終わりを告げるものでもある。この戦地を離れれば、再びあの洛華の冷たい宮殿と、他派の激しい視線が渦巻く濁った渦中へと彼女を戻さねばならないのだから。




「鸞……必ず、きみが心の底から笑える世を創ってみせる。……それまでは、たとえ泥を啜ろうとも」




深く閉ざされた彼女の目蓋へ、俺はそっと誓うように唇を寄せる。

暗い朝靄を突いて響き渡る行軍の気配を背に受けながら、俺の胸の奥底で燃え上がるのは、この腕の中の命を何があろうと死守し、天下のすべてを平らげてみせるという覇王としての絶対の覚悟であった――。

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また明日19:00にお会いしましょう!

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